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油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年8月29日(文久3年7月16日) - 1935年(昭和10年)3月24日)は、日本の実業家。温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた。 == 概要 == 伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の生まれで、1888年(明治21年)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。35歳の時にアメリカに渡り放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年滞在。帰国後、再度相場師となるがうまくいかず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、1871年(明治4年)の別府港開港以来温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉で再起を図ろうと移り住む。 別府では、1911年(明治44年)「旅人を懇ろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言葉に、サービス精神の実践として亀の井旅館(現在の亀の井ホテル別府店)を創業。〔この時、利用客に万が一の急病に対処するために看護婦を常置していた。〕1924年には洋式ホテルに改装して亀の井ホテルを開業。続いてバス事業に進出し、1928年(昭和3年)1月10日に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。 この間、梅田凡平らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船〔お伽船は関西・瀬戸内地域の子どもたちが、お伽話を楽しみながら別府旅行をする趣向で、1910年から約30年続いた。お伽船研究室 〕の活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに別府の名前を全国へと広めた。さらに、中谷巳次郎とともに由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発している。 クリスチャンで酒を飲まず、「旅館は体を休める所であり、飲酒をしたいなら外で飲むか他の旅館に行ってくれ」が熊八の口癖であったため、当時では珍しく酒類の提供を行わず、森永製菓の創業者である森永太一郎が滞在中に酒を注文しようとして断られ、なおも食い下がる太一郎に向かって「あなたは子供のための菓子を作っている会社の社長であるのに、酒が飲めないのかと悔しがるのはおかしい」と言い放ったくらいに徹底していた。〔また亀の井自動車もその影響を受け、運転手の飲酒を禁止し、破った運転手は乗務禁止を課していた。〕しかし旅館で禁酒はあまりにも気の毒だという意見が多くなったため清酒は2合、ビールは1本を限度に提供を開始した〔ただし外国人観光客には開業当初から最高のサービスと東西の銘酒を取り揃え、神戸や横浜のホテルにひけをとらないバーを設置していた。理由として、当時の飲酒マナーが相対的に比較して外国人の方が良かったことと、外国人観光客誘致のためには禁酒が亀の井ホテルのイメージ低下を招く可能性があったため。〕。 今でこそ観光地の売出しや開発には公費の支出が当たり前な現代とは違い、別府温泉の宣伝はすべて熊八個人の私財と借財でまかなわれた。そのため熊八没後、亀の井自動車や旅館は借金の返済のため売り払われたが、その行動力と独創力に敬意をこめ別府観光の父・別府の恩人として慕われ、別府市民らで「油屋熊八翁を偲ぶ会」が作られている。2007年11月1日にはその偉業を称えて大分みらい信用金庫(本社・別府市)の依頼により、別府駅前にブロンズ像が建てられた。そのブロンズ像は片足で両手を挙げ、熊八がまとうマントには小鬼が取りついている。これは制作した彫刻家・辻畑隆子によると、天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけているイメージとのこと〔2007年12月3日、「別府観光の父が銅像に JR駅前で奇抜なポーズ」福島民友、四国新聞(共同通信配信記事)〕。墓は故郷の宇和島市の光国寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「油屋熊八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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