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沼田 鈴子(ぬまた すずこ、1923年7月30日 - 2011年7月12日)は、日本の平和運動家。広島市への原子爆弾投下での被爆者の1人。被爆により左脚を失い絶望に陥ったところを、被爆アオギリを見て生きる希望を取りもどし、切断障害を抱えた身でありながら被爆体験証言活動と平和運動に心血を注いだ。証言活動では被爆アオギリのことを多く語ったことから「アオギリの語り部」として知られる。広島市原爆被害者の会の元副会長、広島を語る会の元会員〔。大阪府出身。 == 被爆までの生涯 == 1923年(大正12年)誕生。1927年(昭和2年)に広島県に転居。1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下当時、沼田は広島逓信省内に置かれた中部防衛通信施設部(本部は大阪)の第2中隊付きの事務員を務めていた。 同年8月6日午前8時15分、その広島逓信省内で被爆(爆心地より1.3キロメートル)し、瓦礫に左脚を潰された。被爆直後は足首から先を失っただけだったが、戦時下の混乱で治療が遅れるうちに、真夏の猛暑で傷口が化膿し、左脚が膝まで腐食して生命の危うい状態となったため、左腿から下すべての切断を余儀なくされた。戦時下の物資不足のため、切断手術はほとんど麻酔なしで行なわれ、病院中に鈴子の悲鳴が響き渡った。 追い討ちをかけるように、当時戦地へ赴いていた婚約者の戦死が知らされた。本来なら同月中に公用で帰国し、鈴子と結婚式を挙げる予定であった。こうして鈴子は戦争により左脚、婚約者、将来の夢を失った〔。 終戦後の1946年(昭和21年)3月、鈴子の入院していた病院にアメリカの米国戦略爆撃調査団から依頼があり、鈴子は被爆者として16mmフィルムで撮影され、まだ傷の癒えない脚の切断面が映像におさめられた。当時はただ、周囲に言われるがままに行なったに過ぎないが、後にこのことが鈴子の運命を大きく変えることとなる。 退院後、義足での歩行練習の末に復職したものの、被爆者や障害者への差別や偏見に遭い、半年で自ら辞表を提出。次第に心が荒び、やがて自殺寸前にまで陥った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沼田鈴子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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