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泉 京子(いずみ きょうこ、1937年10月17日 - )は松竹映画を中心に活躍した日本の元女優。本名は竹中久代。東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)出身。 ==来歴・人物== * 浅草で1886年(明治19年)創業の老舗牛鍋屋「米久(よねきゅう)」の次女として生まれる。 * 1955年に京華女子高等学校を中退し、松竹演技養成所へ入所。翌1956年に野添ひとみ主演の「ホガラカさん」前・後篇で松竹より銀幕デビュー。 * 妖艶で華やかな美貌に身長165cmの長身、また、魅惑的な大きな瞳とB96・W56・H100の日本人離れしたグラマラスな肢体はスクリーンに映え、和製シルヴァーナ・マンガーノと謳われ、元祖美人グラマー女優として名を馳せた。当時、香港でも人気があったという〔「週刊サンケイ」1961年5月号、「香港の中の日本」〕。 * 1958年に放映された『続禁男の砂』に久子(海女)役で出演。妖艶で華やかな美貌に身長165cmの長身、また、魅惑的な大きな瞳とB96・W56・H100の日本人離れしたグラマラスな肢体に白の磯シャツ(白木綿の上着の長袖)を着て、腰には白の磯ナカネをミニスカートのように巻き付け、頭に白の磯頭巾をきちっとかぶり、ゴム製鼻隠し一つメガネタイプの磯メガネを装着して磯桶を持って海に潜るなど、全身びしょ濡れになりながら演技をこなしていた。 * 1962年「波止場で悪魔が笑うとき」の出演を最後に松竹を退社しフリーとなり、翌1963年の大蔵映画「海女の怪真珠」を以って映画界を引退。 * 間もなく、同じ松竹に所属していた俳優の清川新吾と結婚。しかし、粗暴で邪険、刹那的な放蕩生活を続ける清川が作った膨大な借金を返済するため映画界への復帰を余儀なくされ、そして挙句の果てに清川は散々自分の尻拭いをしてくれた献身的な泉を疎んじ始める〔ヤングレディ 講談社 1968年6月10日号 104頁。〕。こうして、1968年に弁護士立会いのもと、4年余り続いた苦難の結婚生活は終わりを告げた。 * 1968年10月封切りの東映「不良番長」で映画界へ復帰、翌1969年3月封切りの東映「旅に出た極道」に出演後、アメリカのペギー・リーのような歌手を目指す本人の希望とは裏腹に、所属プロダクションの思惑から唄えるグラマー女優として不本意な売り出し方をされてしまう、こうしてクラウンレコードよりシングル「魔女のブルース」が発売されたが芳しい結果は得られず、また、歌手活動と並行するように1970年春頃まで時折、男性誌のグラビアに登場したりするも、やがて彼女は芸能界に見切りを着け、家業である「米久」を継ぎ、2011年現在は大女将として店を切り盛りしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「泉京子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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