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泉藩[いずみはん] 泉藩(いずみはん)は、陸奥国南部(磐城国)菊多郡(現在の福島県いわき市泉)に存在した藩。藩庁は泉陣屋(ただし、歴代藩主は城主格に列せられた)。 == 概要 == 元和8年(1622年)、鳥居忠政が磐城平藩から出羽山形藩へ移封された後、平には上総佐貫藩から内藤政長が7万石で入った。このとき、政長の嫡男内藤忠興は父とは別に2万石を領していた。そして寛永11年(1634年)10月、政長が死去して忠興が家督を継ぐと、忠興の2万石は政長の遺命によって末子の内藤政晴が継ぐこととなった。これが、泉藩の立藩である。 正保3年(1646年)2月、政晴の子の内藤政親が継ぐ。政親は居館・城下町の建設を行なった。政親の跡を継いだ内藤政森の元禄15年(1702年)、上野安中藩へ移封された。入れ替わりで板倉重同が1万5000石で入る。しかし重同の子の板倉勝清の時代の延享3年(1746年)9月、遠江相良藩へ移封となる。入れ替わりで本多忠如が1万5000石で入る。第2代藩主本多忠籌の時代から財政難が始まったため、藩政改革が始まる。忠籌は倹約令・風俗の取り締まりなどに尽力して財政再建を果たそうとした。その実力を時の老中松平定信に認められ、若年寄・側用人として取り立てられ、寛政の改革では老中格に栄進して幕政に参与し、武蔵国・上野国内に5000石を加増され、合計2万石を領する大名となった。 その後、第5代藩主本多忠徳の時代に藩校・汲深館が設立され、文武奨励・藩風の一新・文化の興隆が図られた。第6代藩主本多忠紀は幕末期の幕政に寺社奉行・奏者番として参与する。そして戊辰戦争では幕府軍に与して新政府軍と戦ったため、忠紀は官位剥奪の上、2000石を召し上げられて強制隠居を余儀なくされた。その後、養子の本多忠伸が家督を継いで藩主となり、明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県で、泉藩は廃藩となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「泉藩」の詳細全文を読む
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