|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 騒動 : [そうどう] 1. (n,vs) strife 2. riot 3. rebellion ・ 動 : [どう] 【名詞】 1. motion 2. change 3. confusion
泉騒動(いずみそうどう)は、正保元年(1644年)3月10日に現在の栃木県矢板市にあった泉城で勃発した事件。江戸幕府の旗本であった岡本義政が、叔父の岡本保真を喧嘩を装い殺害し、岡本氏が改易されるきっかけとなった事件である。 == 経緯 == 岡本義政の父義保の時代、那須の蘆野領主蘆野資泰に跡継ぎがいなかったので、資泰は義保に、義保の次男万吉に養子縁組を申し入れ、義保もこれを受諾し、いったんは養子縁組の話が成立した。しかし、資泰の家臣たちはこれに反対し、資泰の飛び地領である芳賀郡赤羽村の庄屋の娘との間に出来た庶子(男子)を跡継ぎにするべきとして、資泰はこれを受け入れ、この実子を芦野左近(蘆野資俊)と名乗らせ後継とし、岡本家との養子縁組の話を一方的に破談にしてしまう。 これに激怒した義保は、岡本家と万吉の面目を立てるため、同じく男子がいなかった弟の保真の娘と万吉を結婚させてその跡継ぎとし、万吉には、義保の領地より1000石を分地して持たせ、保真の領地の1000石と合わせて2000石の江戸詰の旗本にして、資泰を見返そうとした。資泰の石高もほぼ同じくらいであった。これを保真も了解し、幕府への分地願いも出したが、それが受理される前の寛永18年(1641年)12月29日、義保が没し、この話はいったん延期となる。 もっとも、この話にはそもそも無理があった。岡本家の領地は4370石であったが、岡本家には60~70人とも言われる家来がいたが、財政的にかなり苦しく、1000石も分地すれば財政的に破綻に近い状態となるのは明らかであった。そこで義保の跡を継いだ義政は、この財政事情を考え、叔父の保真がいなければこの話も破談となり、うまくやれば保真の領地である1000石を甥と叔父の関係で相続することが出来ると考え、保真の殺害を画策し実行するのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「泉騒動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|