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法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデターである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。 == 経過 == === 平氏都落ち === 寿永2年(1183年)7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政近衛基通、剣璽を京都から連れ出すように命じた。天皇と剣璽は六波羅で平氏一門と合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院に隠棲していた平信範(時忠の叔父)の下に逃れた。平氏以外の公卿のほとんどが、臨時に法皇御所となった比叡山の円融房に参集し、26日には対策会議が開かれた。後白河は平氏追討の意向を示したが、天皇と剣璽の返還を優先すべきとする公卿もおり、とりあえず和戦両面を模索することとなり、平氏勢力の撤退が確認された27日になって後白河は法住寺殿に帰還した〔谷昇「後鳥羽天皇在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』60巻2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「法住寺合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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