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御堂関白記(みどうかんぱくき)は、平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。 「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。 道長は、政権を獲得した長徳元年(995年)から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事である。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている〔倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』上巻、「はじめに」〕。 『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる〔例として、「考を定む」という意味では「定考」という語順で「じょうこう」と訓むべきところ、「上皇」に通じることを避けるために「考定」と書いて「こうじょう」と訓む例が多いという。(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』下巻、「あとがき」)」〕。 道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという〔『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』下巻、「あとがき」〕。 同時代の貴族が記した日記、『小右記』(藤原実資)、『権記』(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。 なお、1008年(寛弘5年)12月20日条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち1008年(寛弘5年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという〔倉本一宏「史料紹介・『御堂関白記』自筆本の裏に写された『後深心院関白記』」『日本研究』44号掲載、445 - 462頁、2011年。但し同稿に示された写真には「裏有信尹公」云々と「有」字が見える。翻刻ミスか校正ミスであろう。〕。 2011年(平成23年)5月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦され、2013年6月18日に登録された。 == 現代語訳 == * 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』上中下巻(講談社〈講談社学術文庫〉、2009年) :初の現代語訳。 * 繁田信一『御堂関白記 藤原道長の日記 日本の古典』(角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2009年) :抄訳版。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御堂関白記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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