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法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸〔。通称は黒谷上人・吉水上人とも。 謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である〔 * 「慧光菩薩」…元暦4年(1188年)後鳥羽天皇贈 * 「華頂尊者」…嘉禎3年(1237年)四条天皇贈 * 「通明国師」…寛元2年(1244年)後嵯峨天皇加謚 * 「天下上人無極道心者」…永享12年(1440年)頃(?)後花園天皇加謚 * 「光照大士」…天文8年(1539年)後奈良天皇加謚〕〔。 大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である〔 * 「円光大師」…元禄10年(1697年)東山天皇加謚 * 「東漸大師」…正徳元年(1711年)中御門天皇加謚 * 「慧成大師」…宝暦11年(1761年)桃園天皇加謚 * 「弘覚大師」…文化8年(1811年)光格天皇加謚 * 「慈教大師」…文久元年(1861年)孝明天皇加謚 * 「明照大師」…明治44年(1911年)明治天皇加謚 * 「和順大師」…昭和36年(1961年)昭和天皇加謚 * 「法爾大師」…平成23年(2011年)今上天皇加謚 〕〔。 『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける〔浄土真宗では、法然を「元祖」と称し、宗祖とされる親鸞を「宗祖」(「開祖」・開山)と称す。〕。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。 == 生涯 == === 生い立ちと出家・授戒 === 長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国と、母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。 『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた〔松尾(1995)pp.29-30〕。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。 その後、天養2年(1145年)〔異説には久安3年(1147年)〕、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた〔松尾(1995)p.30〕。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である〔。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)や醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した〔。 これに対して、『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修業をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修業中に父の殺害を知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師・法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている〔森(2013)p.149-150〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「法然」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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