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法顕 : ミニ英和和英辞書
法顕[ほっけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 

法顕 : ウィキペディア日本語版
法顕[ほっけん]

法顕(ほっけん、337年(咸康3年) - 422年(永初)3年)は、中国東晋時代の。姓は龔、平陽郡武陽縣(今の山西省)の人。
==生涯==
幼くして出家、20歳で具足戒を受けた。その人となりは「志行明敏、儀軌整粛なり」〔『高僧傳』 , 337頁下. 『国訳一切経』和漢撰述部史伝部, 第7巻, 高僧伝, 1936, 54頁. 『法苑珠林』 , 475頁上. 〕といわれた。
仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出にくらべて戒律が中国仏教界において完備しておらず、経律ともに錯誤や欠落があるのをなげき、399年隆安3年)、慧景、慧応、慧嵬、道整等の僧と共に長安からインドへ求法の旅にたった。途中ホータン王国を経由しつつ6年かかって中インド(中天竺)に達し、王舎城などの仏跡をめぐり、『摩訶僧祇律』、『雑阿毘曇心論』などをえて、さらにスリランカにわたり、『五分律』、『長阿含経』などをもとめた。413年義熙9年)海路(南海航路)で青州(今の山東省)へ帰国したが、帰国できたのは法顕のみであった。彼の記した旅行記を『仏国記』(別名、『法顕伝』、『歴遊天竺記伝』。英訳〔 ''Record of Buddhistic Kingdoms'' , University of Adelaide. 漢英対訳版〕と仏訳〔''Foé Koué Ki, ou Relations des royaumes bouddhiques : voyage dans la Tartarie, dans l'Afghanistan et dans l'Inde, exécuté, à la fin du IVe siècle,'' par Chy Fa Hian, traduit du chinois et commenté par Abel Rémusat. Ouvrage Posthume. Revu, complété et augmenté d'éclaircissements nouveaux par MM. Klaproth et Landresse, Imprimerie Royale, Paris, 1836. (佛國記).en ligne 〕があり、当時の中央アジアインドに関して書かれた貴重な史料となっている。敦煌から流沙を渡った際には「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。死者の枯骨を道標にするだけ」〔『高僧法顯傳』 , 857頁上. 『国訳一切経』和漢撰述部史伝部, 第16巻, 高僧法顯伝, 1936/1959, 7頁. 〕と述べている。そこは現在のロブ砂漠である〔林良一『シルクロード』(時事通信社)ISBN 4788788144、ISBN 978-4788788145〕。
建康仏陀跋陀羅に出会い、法顕が持ち帰った『大般涅槃経』等が訳出され、涅槃宗成立の基となった。『摩訶僧祇律』40巻も訳された。法顕は荊州の辛寺で没した。享年86。没後、『五分律』も仏駄什が訳した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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