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波多野 義景(はたの よしかげ、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)の武将。鎌倉幕府御家人。父は波多野義通〔鎌倉・室町人名事典〕、または遠義〔吾妻鏡事典〕。通称は五郎。子に三郎盛通(生年未詳 - 建保元年)。親族に波多野義常がおり、彼の名跡を継承して家を継いだ。 == 生涯 == 波多野義常は義景の兄〔鎌倉・室町人名事典〕とも、従兄弟ともされる〔吾妻鏡事典〕人物で、源頼朝の旗揚げの際、合力を呼びかけられたが、拒絶して敵対したのち討手を差し向けられて自害した。義景は頼朝の宥恕を得、波多野氏の家督相続と、本領である波多野荘の保有を許可された。 元暦元年(1184年)5月、子の盛通が志田義広討伐軍に加わっている。 文治4年(1188年)8月23日、波多野本庄北方の所領の所有権を巡って岡崎義実と抗争し、控訴となる。義景は、北方の土地は保延3年(1137年)正月20日に祖父波多野遠義が二男の義通に譲与し、嘉応元年(1169年)6月17日に義通から義景に譲与されたものであり、以来他に譲渡されたことはなく、本件に関しては岡崎義実の横領であると主張した。頼朝の裁定の結果、義景の勝訴となった。 文治5年(1189年)に起こった奥州合戦では、他の御家人らと共に従軍した。出陣に先んじて、戦場で討死する覚悟を宣言し、所領を幼い息子に譲っており、義景の覚悟は頼朝を大いに感心させた。 建久6年(1195年)、頼朝が東大寺供養の儀式を行った際は供奉を務めている。元久3年/建永元年(1206年)、源実朝が殿中で相撲を興行した際、奉行人を担当しており、これが『吾妻鏡』における義景の最後の登場となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「波多野義景」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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