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波多 親(はた ちかし)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、大名。肥前国鬼子岳城(岸岳城)城主。波多氏第17代当主。幼名は藤童(藤堂)丸。元服後の初名は鎮(しげし)。別名に信時。 通称は三河守。 == 生涯 == === 家督相続 === 波多氏は松浦党の領袖であり、戦国期に上松浦党の最大の勢力であったが、波多親に至る系譜には家系図にかなり混乱があるので諸説ある。 有力な説としては、有馬義貞の三男とするもので、先代の第16代当主波多盛(はた さこう)に嫡子がなかった事から、娘が嫁いだ有馬氏から外孫を養嗣子を迎えて波多氏の家督を継がせたという。 この家督相続に当たっては、藤童丸を擁立する盛の後室・真芳〔「新芳」とも。有馬晴純の子、或いは孫。〕の一派と、盛の弟波多志摩守を担ごうとした一派との対立から御家騒動が起こった。 永禄7年(1564年)8月7日、真芳は、志摩守擁立派の頭である日高資(ひだか たすく、大和守)を茶を与えて毒殺した。怒った大和守の子日高喜(甲斐守)は、12月29日、歳晩の祝詞のために登城した際、手勢に合図して放火し、後室一派を殺そうと乱入して、混乱に乗じて城を奪い取った。後室や藤童丸は侍女であった甲斐守の娘を人質にして辛くも逃れ、大村の草野氏〔後室・真芳の姉が嫁いでいた。〕を頼った。 (勝尾城の支城の一つ)鏡城に落ち延びた後室一派が龍造寺氏に後援を願って復権を期す一方で、日高一派は波多政〔波多盛の甥波多隆の末弟。〕を擁立して壱岐六人衆と争い、同じく松浦党の松浦隆信に援助を願って、松浦隆信の末子信実と日高喜の娘の婚儀をまとめて、信実を大将として壱岐で戦った。 永禄12年(1569年)12月、後室一派は龍造寺隆信・有馬義貞の援軍を得て岸岳城に攻め寄せた。日高は松浦隆信に加勢を要請したが、嵐で松浦勢の到着が遅れ、城を放棄して壱岐へ逃亡。その後、日高喜は波多政を殺して自ら壱岐守護を称し、松浦氏の配下でしばしば争ったが、松浦隆信は両者を和睦させた。 藤童丸は元服の際に大友義鎮から「鎮」の字を偏諱で賜り、「波多下野守鎮」と称した。 元亀2年(1571年)、対馬宗氏の援軍を受けて壱岐へ攻め込むも、敵の偽りの内応に騙され敗北。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「波多親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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