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波谷守之 : ミニ英和和英辞書
波谷守之[はだに もりゆき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なみ]
 【名詞】 1. wave 
: [もり]
 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

波谷守之 : ウィキペディア日本語版
波谷守之[はだに もりゆき]
波谷 守之(はだに もりゆき、1929年11月28日 - 1994年11月2日)は、日本ヤクザ波谷組組長。元三代目山口組菅谷組舎弟。天一坊と呼ばれた。広島県呉市阿賀町出身。
==来歴==

昭和4年(1929年)11月28日、広島県呉市阿賀町で生まれた。父は、波谷吾一。母は番下キサ。波谷吾一の波谷組は、カシメ(鉄骨と鉄骨の接合部分を熱したリベットで締め付ける職人)を使って土木建築請負業を営んでいた。
昭和8年(1933年)、母の番下キサが死亡した。その後、父の波谷吾一が朝鮮に出稼ぎに行った。波谷守之は、祖母の番下タミの家に預けられた。
昭和12年(1937年)、父の波谷吾一が、呉市阿賀町の自宅に帰ってきた。波谷吾一は間もなく、静子と再婚し、波谷守之を引き取った。
昭和14年(1939年)、呉市内で、向井組の食客だった神戸のカシメ若衆たちが、呉市阿賀町のカシメ・波谷組(組長は波谷乙一。波谷吾一の兄)〔波谷乙一の率いる波谷組と波谷吾一の率いる波谷組は別〕の若衆と喧嘩となった。翌日、料亭で、向井信一ら向井組の代表数名は、波谷乙一ら波谷組代表数名と和解に向けての話し合いを持った。この席に、向井組のカシメ・大西政寛(後の土岡組若頭)が乱入し、向井信一の斜め後ろに座ると、腹巻から拳銃を取り出し、自分の膝の上に置いた。向井信一が、大西政寛に、和解に向けての話し合いをしていることを説明し、拳銃を仕舞わせた。これを切っ掛けに、大西政寛は、波谷乙一と知り合った。波谷は、波谷乙一を通じて、大西政寛と知り合った。また、このころ、大西政寛は、呉市阿賀町の土岡正三土岡博(後の土岡組組長)の土岡兄弟(土岡正三が兄)、土岡博の同級生だった折見誠三と知り合った。大西政寛は、土岡博、土岡正三、折見誠三の舎弟となった。土岡兄弟の父・土岡正一は、広島ガスの下請け会社・土岡組を経営していた。事業の土岡組は、土岡正一の長兄・土岡吉雄が継いだ
同年、波谷守之は、京都の親戚に預けられた。
昭和16年(1941年)、京都から呉市阿賀町の実家に戻り、尋常小学校高等科に入学した。
昭和20年(1945年)3月、尋常小学校高等科を修了し、波谷乙一の口利きで、広島市博徒渡辺長次郎の子分(若中)となった。波谷守之は、渡辺義勇報国隊で、勤労奉仕をした。
同年7月2日、呉市の市街地は、2回目の空襲により、焼け野原となった。
同年8月6日、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、渡辺長次郎が死亡した。波谷守之は、廿日市駅にいて無事だった。広島市内で、渡辺長次郎の安否を調べた後、呉市阿賀町に戻った。波谷守之は、叔母の白銀キシノの家で生活した。白銀キシノの夫・為五郎は、工廠の工員だった。このころ、白銀キシノの家に出入りしていた松本年春と知り合った。
同年11月18日、美能幸三が南方戦線から復員した
同年12月、呉市阿賀町で、土岡博が、土岡組〔この博徒の土岡組は、土岡博の兄・土岡吉雄が経営する土岡組とは別。〕を結成した。土岡博の兄・土岡正三と、折見誠三は、土岡博の舎弟となった。波谷守之は土岡組の若中になった。土岡博は、呉市広町の映画館・広栄座の裏に、賭場(道場)を開いた。
昭和21年(1946年)3月、土岡博の舎弟・大西政寛が中国から復員し、土岡組に加入した。
同月、呉市の山村辰雄(後の初代共政会会長)が「山村組」の看板を掲げ、進駐軍の木材運搬を行った。
同年8月14日夜、桑原組(組長は桑原秀夫。後の呉市市会議員)と土岡組の若衆の対立から、呉市における第一次広島抗争が勃発した。この後、波谷守之は呉市での広島抗争に深く関わっていった。
昭和25年(1950年)4月、波谷守之は、呉市内のマージャン店で、愚連隊と喧嘩になり、拳銃を発砲して、呉警察署に逮捕された。殺人未遂で起訴され、広島地方裁判所呉支部で懲役3年の実刑判決を受けたが、控訴して保釈された。裁判費用は、父の波谷吾一が工面した。
同年、波谷守之は保釈中に、拳銃不法所持で逮捕された。翌日、波谷守之に拳銃を渡した相手が自首した。波谷守之は、呉市の簡易裁判所で罰金刑が確定し、釈放された。
昭和26年(1951年)9月23日、波谷守之の控訴が棄却され、懲役3年の実刑が確定した。
同年、波谷守之は、広島刑務所で、盗みの常習犯だった渡辺省三と知り合った。
昭和32年(1957年)、岡山刑務所に移された。ここで、松本年春と山本盛親に勧められて、渡辺省三を子分にした。
昭和33年(1958年)、出所した渡辺省三を、波谷秀夫(松本年春の妻の兄)と玉次兄弟に預けた。渡辺省三は仕事師の金を盗んで逃亡した。
昭和34年(1959年)2月、波谷守之は岡山刑務所を出所した。番野正博が放免祝いに来て、再び波谷守之の子分となった。波谷秀夫や河面清志の懇願を受けて、渡辺省三を許した。波谷守之が、渡辺省三の盗んだ金を、仕事師に支払った。波谷守之は、呉市の原田法律事務所を訪ね、原田香留夫に挨拶をした後、河面清志・広子夫婦(広子は番野正博の妹)、山本盛親、藤島章三、西川光男、番野正博、渡辺省三、松本八重子(松本年春の妻)を連れて、大阪の博徒山口浪之助を頼った。大阪府大阪市中央区日本橋2丁目の家を借りた。大阪で、大阪港区の博徒・名和忠雄澄田組幹部)と平岡義明(後の菅谷組菅谷政雄組長の舎弟)と知り合い、「三友会」という親睦組織を作った。このころ、延岡朝夫と知り合い、子分とした。
同年10月7日、呉市における第一次広島抗争が終結した。河面清志は妻とともに呉市阿賀町に戻り、堅気になった。西川光男と番野正博も阿賀に戻った。山本盛親と藤島章三も堅気に戻った。まもなく、番野正博が病死した。延岡朝夫と渡辺省三と松本八重子が残った。延岡朝夫と渡辺省三は、三代目山口組菅谷組(組長は菅谷政雄浅野組(組長は浅野二郎。後の一和会事務局長)の副組長・小山敏夫の義兄弟となった。
昭和35年(1960年)、山口浪之助が故郷の愛媛県宇和島市に帰ることになり、波谷守之も山口浪之助に従った。波谷守之は、山口浪之助の舎弟となった。
昭和36年(1961年)、大阪に戻り、大阪市南区黒門市場に家を借りた。元土岡組・折見誠三、河面清志、藤島章三、平畠行人池田孝志松本武面寿一向和敏前原忠之久山勝次上野安芸男平本隆広、松本八重子が集まった。
同年、道子と結婚した。
同年、松本武が、パチンコ店で、愚連隊互久楽会の若衆と喧嘩になり、菅谷組浅野組事務所に逃げ込んだ。互久楽会の若衆は、山口組の代紋が入った看板を割った。波谷守之は、菅谷政雄に会い、看板が割られた件を謝罪した。菅谷政雄は波谷守之を不問とした。
同年、菅谷組舎弟頭・浅野二郎から、延岡朝夫を譲り受けたいとの申し出があった。波谷守之は、延岡朝夫に、浅野二郎からの申し出のことを伝えたが、延岡朝夫からの明確な返事はなかった。波谷守之は延岡朝夫に「阿賀に帰って、堅気になれ」と告げた。浅野二郎が、延岡朝夫の身柄を預かり、浅野組が経営する大阪市天王寺区上本町六丁目(通称は上六)の売春宿「ピース」の責任者とした。
昭和37年(1962年)1月1日、波谷守之は、子分たちを借家に呼んで、宴会を行った。藤島章三が階下の寿司屋に入り、シャツに醤油を付けて上がってきた。平畠行人は、醤油を血だと思い、藤島章三が喧嘩で殴られたものと勘違いして、階下の寿司屋に包丁を持って怒鳴り込んだ。寿司屋はすぐに警察を呼んだ。平本隆広や池田孝志が、寿司屋に駆けつけた警官と喧嘩になった。平畠行人が巡査部長を包丁で刺殺した。平畠行人は懲役10年、池田孝志と平本隆広は懲役2年の判決を受けた。この事件を切っ掛けに、波谷守之は再び宇和島に行ったが、すぐに大阪に戻り、黒門市場の大源ビルの部屋を借り、妻の道子と松本八重子を呼んだ。その後、大阪ミナミのマンションに移った。
昭和39年(1964年)、三代目山口組菅谷組が愛媛県宇和島市に事務所を構えた。八幡浜と宇和島支部長代行は、波谷守之の子分だった渡辺省三だった。波谷守之は、山口浪之助を応援するために、宇和島市に入った。山口浪之助は山口組と抗争する気はなかった。波谷守之は、山口浪之助を引退させ、浅野二郎を通じて、菅谷政雄に宇和島市の組事務所を閉めるように頼んだ。菅谷政雄は了解して、組事務所を閉じた。その後、浅野二郎が、渡辺省三のことを波谷守之に詫びた。波谷守之は、浅野二郎の口ぞえで、再度渡辺省三を子分とした。
昭和40年(1965年)、藤島章三の口ぞえで、山口浪之助の子分だった河田利長を子分にした。
昭和43年(1968年)、松本年春が大阪刑務所を出所した。
同年、渡辺省三が波谷守之の金を持ち逃げした。兄弟分だった松本年春は、断指して波谷守之に詫びた。
同年、面寿一と河田利長の舎弟が、山口浪之助の子分だった宮崎保(山口組福井組福井英夫組長の舎弟)を殺害した。奥島連合会奥島博会長が仲裁人となった。波谷守之と福井英夫は、「2人で宮崎保の墓を作る」という条件で、手打ちをした。
昭和45年(1970年)11月、波谷守之は、菅谷政雄の舎弟となった。
昭和47年(1972年)、大阪市阿倍野区播磨町に移転した。その後、延岡朝夫と再会し延岡朝夫を許した。
昭和52年(1977年)1月、菅谷政雄は、菅谷組・川内組川内弘組長を破門とした。これを切っ掛けとして、三国事件が勃発した。
同年4月13日午後2時過ぎ、大阪府警の刑事数名が、大阪市阿倍野区播磨町の波谷守之の自宅兼事務所を訪れた。向和敏と得能要が対応した。大阪府警の刑事は一旦引き上げたが、30分~40分後に再度波谷守之宅に引き返し、川内組からの報復に備えて、波谷守之宅を警備した。向和敏と得能要は、テレビを見て、波谷組関係者が川内組・川内弘組長を射殺したことを知った。
同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部〔絶縁状の差出人は、「田岡一雄」ではなく「三代目山口組幹部一同」となっていた。しかし、田岡一雄は、山本健一から菅谷組による川内弘射殺を聞き、山本に絶縁を示唆していた〕は、菅谷政雄を絶縁とした。波谷守之は菅谷政雄に引退することを勧めたが、菅谷政雄は拒否した。波谷守之は、菅谷政雄のボディーガードに天野洋志穂を就けた。
同年5月5日、延岡朝夫が公訴提起された。
同年6月20日、延岡朝夫は「昭和52年(1977年)4月1日午後7時ごろ、波谷守之の自宅2階で、波谷守之から川内弘殺害を指示された」と供述した。同年6月21日までかけて、延岡朝夫の検面調書が作成された。
同年8月31日午後9時過ぎ、阿倍野署の刑事2人は、波谷守之を殺人銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬取締法違反容疑で逮捕した。
同年9月1日、波谷守之は福井警察署に移送され、取調べを受けた。波谷守之は罪状否認のまま起訴された。
同年11月12日、波谷守之の第1回公判が開かれた。泉政憲前波実、渡辺俶治が波谷の弁護人となった。
昭和53年(1978年)1月12日、波谷守之の第2回公判が開かれた。
同年7月、菅谷組浅野組若頭補佐・首藤新司、菅谷組浅野組共進会会員・中川徳治、菅谷組波谷組藤島組準構成員・田中政治に、懲役15年の一審判決が出た。3人は服役した。
同年9月14日、延岡朝夫は、主任検事に、再度の取調べを願う上申書を提出した。
同年9月18日、延岡朝夫は再尋問で、前年6月20日から6月21日に作成された検面調書を全面否定した。しかし、この調書は第一審法廷には提出されなかった。
昭和54年(1979年)2月15日、波谷守之に対して懲役20年、延岡朝夫に対して懲役15年の一審判決が出た。波谷守之は控訴した。控訴審では、新しい弁護団が結成された。田中勇雄が主任弁護人となり、泉政憲、菊池利光、川崎敏夫、渡辺俶治が選任された。
その後、波谷守之が、昭和52年(1977年)4月1日(延岡朝夫に自宅で殺人を指示したとされる日)のアリバイを思い出した。その日、波谷守之は友人の店の開店祝いのために、女性と贈答品を買いに出かけていた。
昭和56年(1981年)1月20日、名古屋高等裁判所は波谷守之の控訴を棄却した。波谷守之は上告を決めた。河村澄夫を主任弁護人として、泉政憲、菊池利光、後藤昌次郎西嶋勝彦角田由起子佐々木静子島崎正幸、前波実、北尾強也、川崎敏夫、原田香留夫八海事件の弁護人の1人。1度波谷の弁護をしたことがあった)、渡辺俶治の弁護団が結成された。
昭和57年(1982年)、菅谷政雄が死亡した。
昭和59年(1984年)4月、最高裁判所は、二審判決を破棄した。
同年9月13日、波谷守之は無罪となって、金沢刑務所を出た。
同年、波谷守之は、天野洋志穂に舎弟盃を与えた〔出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9のP.148〕。
昭和62年(1987年)11月24日、菅谷政雄の7回忌が行われた。波谷守之の交渉で、午前中には、一和会関係者が焼香し、午後には山口組関係者が焼香した。
昭和63年(1988年)、解散した関西二十日会に変わって、新しく西日本二十日会が結成された。関西二十日会とは違い、特に山口組を仮想敵とするわけではなかった。西日本二十日会の加盟団体は、唐津市西部連合下関市合田一家広島市共政会尾道市侠道会笠岡市浅野組松山市松山連合会(後の山口組松山会)、岡山市木下会徳島市勝浦会高松市親和会大阪市波谷組だった。
平成2年(1990年)6月28日午前2時すぎ、山波抗争が勃発した。
平成3年(1991年)、波谷組・波谷守之組長は西日本二十日会から脱退した〔出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9のP.154〕。
同年、西日本二十日会は解散した〔出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9のP.154〕。
平成6年(1994年)11月2日、波谷守之は、大阪市阿倍野区の自宅で こめかみを拳銃で撃って自殺した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「波谷守之」の詳細全文を読む




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