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洗衣院(せんいいん、またの名を浣衣院)は、金王朝における官設の妓院である〔中国网 〕〔中国百科在线 〕。『靖康稗史証』の記載によると、靖康の変(1126年)の後、宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主〔靖康の変当時の呼称は「帝姫」〕)、宗女〔靖康の変当時の呼称は「宗姫」〕、女官、宮女、さらに官吏や平民に至るまでの多数の女性が、遠く金に連行された。一部は現地で洗衣院に入れられて、性的奉仕を強要された〔『靖康稗史証』「宣和乙巳奉使金国行程録」、「瓮中人語」、「開封府状」、「呻吟語」、「宋俘記」、「南征録匯」〕。複数の幼い皇女たちも洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは洗衣院の娼婦となった〔『靖康稗史証』〕。 == 捕虜女性の数 == 『宋史』によると、女真人将校たちは北宋の宮廷にあった財宝のほとんど全てを略奪した。徽宗の第9子の康王趙構(南宋の初代皇帝高宗)と、庶人に落とされていた哲宗の皇后孟氏(元祐皇后)らの数人のみ〔徽宗の最年少の子恭福帝姫、老齢の英宗修容張氏、哲宗の三女の淑慎帝姫、哲宗の妃嬪の美人慕容氏と美人魏氏。〕が、運よく難を免れている。 靖康の変の結果、金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は、『開封府状』によると、宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫195名、族姫1241名、女官479名、宫女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性3319名の計11635名で、それぞれが金額を課された上で、洗衣院に入れられた。 また、金の李天民の記した『南征録匯』には、靖康元年12月初十日のこととして「宋主が二帥(粘没喝、斡離不)に面会しようとしたが、拒まれてしまった。そこで(金側の使者である)蕭慶へ恭順の意志を伝え、人や物を貢納することとした。宋朝の臣下たちは口々に抗議したが、(宋の官僚ながら金側につくこととした)呉幵と莫儔とは二帥へ宋主の意を伝え、そこで親王、宰執、宗室の娘各2人、また袞冕や車輅および宝物2千、また民間の女性や楽団の女性それぞれ500人を捧げ、また毎年に銀と絹を計200万両・200万疋を献上すれば、黄河以南の地を宋側が保持しても良いとの許しを得たのであった。なお、宗室の女性はそれぞれ二帥にささげられた。これは『武功記』に見える」と記録する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洗衣院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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