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洛外 : ミニ英和和英辞書
洛外[らくがい]
(n) outside Kyoto or the capital
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洛外 : [らくがい]
 (n) outside Kyoto or the capital
: [そと, ほか, げ, がい]
 【名詞】 1. other place 2. the rest 
洛外 ( リダイレクト:洛中 ) : ウィキペディア日本語版
洛中[らくちゅう]
洛中(らくちゅう)とは、平安京の京域内のこと。平安京を「洛陽」と呼んだことから派生した言葉で、その示す範囲は時代ごとに違いがある。また、公・官・民、それぞれの立場からも認識の違いがみられる。洛中に対して、洛中に続く外縁地域を洛外と呼んだ。
== 平安時代の「洛」=「洛陽」と「長安」==
古くは平安京域内を指して「京中」と呼んだが、鎌倉初期から京中に代わって「洛中」の語が頻出するようになる〔鎌倉初期に成立したと見られる平家物語では圧倒的に「京中」が使われ「洛中」の語はほとんど見られない。対して「入京」「帰京」は全く見られず「入洛」「帰洛」がごく普通に使われている。〕。この「洛」は「洛陽」の一字を採ったもので〔すでに中国の詩文では「洛中」「洛下」や「洛城」など、洛の一字を以って洛陽を示す例があったからこれに倣ったものであろう。〕、後の京都の基礎となった左京〔ここでいう「左京」とは、現在の「左京区」の区域ではなく、平安京の中心である朱雀大路(現在の千本通)の東側、東京極大路(現在の寺町通)までの範囲を指す。同じく「右京」も朱雀大路の西側から西京極大路までの区域を指した。平安初期には、左京・右京をそれぞれ「東京」・「西京」と呼んだ。〕を中国の都「洛陽」に擬え、対して、右京(朱雀大路から西側の部分)を同じく「長安」と呼んだとされ、後に右京が廃れたことから、市内(実質的に左京)を洛中(らくちゅう)、外側を辺土、後に洛外(らくがい)と呼ぶようになったされる。洛陽、長安を左京、右京に分けて使ったとする説は、今のところ平安遷都から500年余経た鎌倉時代末期(?)に洞院公賢(1291~1360)によって書かれた『拾芥抄』の「京都坊名」の項に「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記されているのが、最も古い〔洞院公賢はその出典を明らかにしていないが、「洛陽城」「長安城」としているところをみると、本朝文粋などに現れた「洛城」「長安城」にヒントを得た可能性も考えられる。また中国では、洛陽を東京、長安を西京と呼んだから(「洛陽称東京、長安称西京」)、これをそのまま平安京の「東京(左京)」「西京(右京)」に当てはめた可能性もある。〕〔史家村井康彦はさまざまな著書で「左京を洛陽、右京を長安と名付けたのは唐風文化一辺倒であった嵯峨天皇の時だろう」と書いているが、その根拠を示さない。〕。「左京洛陽・右京長安」説はこれ以降さまざまの著書に引用され、そのことから「洛中とは左京のこと」との主張が生まれて、現在ではあたかも定説になった感がある。
これに対し、平安時代の文献からの疑問もある〔五島那治ら説。五島説は『平安時代史事典』(1996・角川書店)「洛中」の項にある。五島はそこでまず冒頭に「『洛』は『洛陽』即ち京都の意味で、『洛中』は漠然とした京内をいう言葉」と定義づけている。〕。平安時代の文学では左京右京を問わず平安京を「洛陽」あるいは「長安城」と呼んでおり、例えば平安初中期の詩文(「本朝文粋」「和漢朗詠集」など)に「洛陽」「長安城」あるいは「洛城」と現れるが、一つの詩文の中に「洛陽」と「長安」が併記される例は見当たらないからそれらがそれぞれ左京と右京を指したとは言えず、「城」をつけて呼んだところを見れば、共に「平安城」に代わる文学上の雅称として(つまり共に平安京全体を指す言葉として)使われたとするほうが自然である。また遷都後間もなく洛陽と長安の坊名を借りて名付けられたと考えられている「銅駝坊」「教業坊」「陶化坊」などの坊名〔これら坊名は嵯峨天皇により宮城の門の名が和風から唐風に変えられた弘仁9年に、同時に命名されたと考えられているが(村井康彦ら説)、そのことは史書などに現れない。〕も、必ずしも「左京は洛陽」「右京は長安」を示していない〔例えば、左京の「崇仁坊」「永昌坊」などは長安城から、右京の「豊財坊」「毓財坊」は洛陽城から採用している。〕。その後も「左京を洛陽、右京を長安」と称した事実は平安期の文献では確認できないから、洛陽・長安の区別は少し後、すでに「洛中」や「入洛」などの語が成立していた鎌倉時代以降のことと考えられる〔しばしば慶滋保胤が『池亭記』において左京を指して「洛陽城」と書いたとされるが、対して長安の名は文中に見えないから洛陽城をもって京域全体を指していたとも解せられる。〕。また「小右記」長和4年(1016)6月25日条では西京(右京)を「西洛」とも呼んでおり、やはりここでも右京を含めた平安京全体を指して洛陽と呼んだことが伺える。都を指して「洛陽」という言い方は早くから定着していたが、のちに右京が廃れたことにより都の範囲が狭まり、実質的に「京都(洛陽)=左京」という状態になっていたから、対して詩文に現れた「長安」を右京に付会して、上記「拾芥抄」の「左京洛陽・右京長安」説が成立したとも考えられる。この考え方に立つと「洛中」が必ずしも左京域のみを指した語でなかったことになる〔長安という呼び名が廃れたのは、「長」も「安」も日本では多用される文字であったため「洛」のように一字で洛陽すなわち京都を意味することができなかったためと考えられる(たとえば「上洛」はすぐ理解できるが、「上」「上」では言語としての明晰性に欠ける)。中国でも事情は同様であったと見え、2で述べたように洛の一字を以って洛陽を示すことはあったが、長あるいは安の一字を以って長安を示す例は見当たらない。「長城」という語は見られるがこれは「長安城」の略ではなく「万里の長城」のことであった。〕。
以上平安時代の諸文献に基けば、一般に信じられる「平安初期に(施政者により)右京は長安、左京は洛陽と名付けられた」という説は真実とは言えず、鎌倉末期以降唱えられ、江戸時代に広く流布した説と考えられる。したがって平安時代には、「洛陽」とは実質的にはどうあれ都全域指す呼称であって、それを語源とする「洛中」という言葉も左京に限らぬ都全域を指した言葉であったとすべきであろう。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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