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洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代の公家。従一位左大臣。後中園左大臣と号す。父は内大臣洞院実夏。祖父は洞院公賢。養子に洞院実信(正親町忠季の子)、洞院満季(洞院実信の子)がいる。 == 生涯 == 暦応3年(1340年)11月21日叙爵。ところが後に父と不仲となって廃嫡され、替わりに弟の洞院公頼が後継者とされた。ところが、貞治6年(1367年)5月10日に権中納言となっていた公頼が急死、続いて6月1日には実夏も薨去した。実夏は公頼に支障がある場合にはその弟を当主にするように命じていたが、朝廷は幼少を理由に保留、更に公賢が薨去の際に実夏との家督争いに敗れて吉野に奔った公賢の弟(養子)の洞院実守までが京都に帰還して当主に任ぜられるように動いたために洞院家の家督争いが紛糾した〔実守は正平一統の際に北朝を離反して南朝に仕えながら、公賢薨去時と実夏薨去時に突如北朝に帰参して家督争いを繰り返し、敗れて南朝に戻った。実夏の娘婿であった近衛道嗣は「南北之往来頗忠貞之儀乎」(『愚管記』)と呆れている。〕。そのため、室町幕府は、応安3年(1370年)頃に将軍足利義満の名で公定に洞院家を継がせて内紛を終結させるように武家執奏を行い、これを受けて応安4年1月19日後光厳天皇によって公定の洞院家門継承の勅裁が下されて洞院家を継ぐことになったのである〔森茂暁『増補改訂 南北朝期公武関係史の研究』(思文閣出版、2008年) ISBN 978-4-7842-1416-7 P435-436〕。 以後累進して従一位左大臣に至る。日記に『洞院公定日記』があり、応安7年(1374年)と永和3年(1377年)の自筆断簡が残存する。永和2年(1376年)頃、諸家の系図を集めて『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』)を編んだ。また、日記の「洞院公定日記」については、当時の南北朝の動乱期の世情を鮮明に描いており、更に太平記の作者といわれる小島法師についても記されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洞院公定」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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