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洞院公泰 : ミニ英和和英辞書
洞院公泰[とういん きんやす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほら, どう]
 【名詞】 1. cave 2. den 3. grotto 
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  

洞院公泰 : ウィキペディア日本語版
洞院公泰[とういん きんやす]

洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿歌人左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇養子となる。公賢公敏の庶弟、守子後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。

== 経歴 ==
中宮権亮左近衛中将蔵人頭を経て、元亨元年(1321年)6月参議として公卿に列し、8月従三位に叙される。正中元年(1324年正三位、翌2年(1325年)正月左衛門督を兼ね、4月権中納言嘉暦2年(1327年)3月従二位と進むも、元徳2年(1330年)7月に辞任。同年11月正二位に叙された後はしばらく任官の事なく、建武政権下の建武元年(1334年)9月権大納言に任じられて台閣に復帰する。延元元年/建武3年(1336年)正月脇屋義助を大将に据えた宮方軍に参加し、東国から上洛する足利尊氏を山崎にて迎え討ったが、配下の公家は実戦の経験に乏しかったため、敗色が濃くなるとたやすく降参したという〔『太平記』巻14「将軍御進発大渡・山崎等合戦事」〕。次いで同年5月宮内卿、11月春宮大夫を兼ねる。南北朝分立後は北朝に仕え、興国元年/暦応3年(1340年)12月辞職したが、翌年(1341年本座を許され、正平3年/貞和4年(1348年)10月民部卿に任じられた。
正平6年/観応2年(1351年)12月正平一統の際には南朝へ参候し、大納言に任じられる。以後は南朝公卿として累進し、右大臣に昇ったが、やがて散位に移り、正平14年/延文4年(1359年)5月に出家して覚元(覚玄)と号した。出家後も歌会には出詠し、正平19年/貞治3年(1364年)〔『新葉集』雑中・1173に公泰の詠歌として、「命あれば三代につかふる名もとめつ六十のいまの関の藤川」とある。従来この「三代」を後醍醐後村上長慶に比定し、正平23年(1368年)の長慶天皇践祚後も在世したとする説が有力だが、公泰が60歳を迎えたのは同19年(1364年)なので、解釈に誤りがあるとしなければならない。〕以降間もなく薨去したと思われる。
京都歌壇においては、貞和2年(1346年)の『貞和百首』などに詠進し、勅撰集は『続後拾遺和歌集』に1首、『風雅和歌集』に4首、『新続古今和歌集』に7首が入集した他、南朝歌壇においては、正平8年(1353年)の『内裏千首』などに詠進し、准勅撰集『新葉和歌集』には「冷泉入道前右大臣」として45首が入集している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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