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洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇の養子となる。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。 == 経歴 == 中宮権亮・左近衛中将・蔵人頭を経て、元亨元年(1321年)6月参議として公卿に列し、8月従三位に叙される。正中元年(1324年)正三位、翌2年(1325年)正月左衛門督を兼ね、4月権中納言、嘉暦2年(1327年)3月従二位と進むも、元徳2年(1330年)7月に辞任。同年11月正二位に叙された後はしばらく任官の事なく、建武政権下の建武元年(1334年)9月権大納言に任じられて台閣に復帰する。延元元年/建武3年(1336年)正月脇屋義助を大将に据えた宮方軍に参加し、東国から上洛する足利尊氏を山崎にて迎え討ったが、配下の公家は実戦の経験に乏しかったため、敗色が濃くなるとたやすく降参したという〔『太平記』巻14「将軍御進発大渡・山崎等合戦事」〕。次いで同年5月宮内卿、11月春宮大夫を兼ねる。南北朝分立後は北朝に仕え、興国元年/暦応3年(1340年)12月辞職したが、翌年(1341年)本座を許され、正平3年/貞和4年(1348年)10月民部卿に任じられた。 正平6年/観応2年(1351年)12月正平一統の際には南朝へ参候し、大納言に任じられる。以後は南朝公卿として累進し、右大臣に昇ったが、やがて散位に移り、正平14年/延文4年(1359年)5月に出家して覚元(覚玄)と号した。出家後も歌会には出詠し、正平19年/貞治3年(1364年)〔『新葉集』雑中・1173に公泰の詠歌として、「命あれば三代につかふる名もとめつ六十のいまの関の藤川」とある。従来この「三代」を後醍醐・後村上・長慶に比定し、正平23年(1368年)の長慶天皇践祚後も在世したとする説が有力だが、公泰が60歳を迎えたのは同19年(1364年)なので、解釈に誤りがあるとしなければならない。〕以降間もなく薨去したと思われる。 京都歌壇においては、貞和2年(1346年)の『貞和百首』などに詠進し、勅撰集は『続後拾遺和歌集』に1首、『風雅和歌集』に4首、『新続古今和歌集』に7首が入集した他、南朝歌壇においては、正平8年(1353年)の『内裏千首』などに詠進し、准勅撰集『新葉和歌集』には「冷泉入道前右大臣」として45首が入集している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洞院公泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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