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洞院 実清(とういん さねきよ)は、南北朝時代の公卿。権大納言洞院公敏の子。南朝に仕えた。冷泉実清とも。 == 経歴 == 後醍醐天皇の忠臣である父・公敏が元弘の乱に坐して出家したため、これを継いで南朝に参仕した。『尊卑分脈』の尻付には「左中将正四下、参南朝」とだけ記されているから、公卿としての官途は南朝における叙任と考えられよう。正平6年/観応2年(1351年)正平一統時には権中納言であり〔『園太暦』正平6年12月26日条、『敦有卿記』同年12月28日条〕、翌正平7年(1352年)正月の叙位で従二位に昇叙〔『園太暦』正平7年正月5日条〕。同年5月八幡の戦いで敗れて男山が陥落した際、洞院実世や四条隆俊らとともに河内国東条へ落ち延びている〔『園太暦』正平7年5月19日条裏書〕。正平8年/文和2年(1353年)賀名生で催された『内裏千首』に詠進。正平9年/文和3年(1354年)12月には既に大納言へ進んでいたが〔『敦有卿記』文和3年12月24日条〕、その後の消息は不明である。正平14年/延文4年(1359年)8月の筑後川の戦いで懐良親王に従軍して討死した「洞院権大納言」〔『太平記』巻33「菊池合戦事」。『参考太平記』には金勝院本を引いて、「洞院権大納言」の名を親弘と注するが、洞院家にこのような名の人物は見出せない。〕とはあるいは実清のことかと思われるが、確証はない。和歌は、『新葉和歌集』に2首入集する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洞院実清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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