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津向文吉 : ミニ英和和英辞書
津向文吉[つむぎのぶんきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

津向文吉 : ウィキペディア日本語版
津向文吉[つむぎのぶんきち]
津向 文吉(つむぎのぶんきち、文化7年(1810年) - 明治16年(1883年10月5日)は、江戸時代後期・明治初期の博徒甲斐国山梨県)で活動した甲州博徒の一人。
== 略歴 ==
甲斐国鴨狩津向村(現:山梨県西八代郡市川三郷町)に生まれる〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。生家は鴨狩津向村の村名主を務める宮沢家〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。鴨狩津向村は甲斐・駿河方面の富士川舟運における物流拠点で、文吉は活動拠点の重なる竹居村笛吹市)の竹居安五郎と抗争を繰り広げた〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。
弘化2年(1845年)頃には鰍沢において竹居安五郎と出入りが発生する〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.17〕。弘化2年には駿河の博徒・清水次郎長の叔父にあたる和田島太右衛門との出入りでは子分10人を率いて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出陣する〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。ところがこれは三馬政(さんま まさ)の計略であると言われ、まだ駆け出しであった次郎長の調停により出入りは回避された〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。文吉はこれを縁に次郎長との関係を深める〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。
嘉永2年(1849年)には博打の咎により捕縛され流刑となり、同年4月から9月まで三宅島に滞在する〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.17〕。同年9月には八丈島の末吉村に移され、明治2年(1869年)に恩赦されるまで20年間流人として過ごした〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。恩赦後は生地で木賃宿の「つむぎ屋」を営む〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。また、恩赦後は次郎長を尋ねたという〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。1883年(明治16年)に73歳で死去〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。
市川三郷町内には文吉の墓石があり、1921年(大正10年)9月の建立で、建立者として宮沢姓の二名の人物の名を記している〔『博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質』、p.72〕。文吉の墓石には隣接して子分・飯窪定五郎の墓石も所在している〔『博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質』、p.72〕。2010年(平成22年)に実施された調査では双方の墓石とも摩耗が激しく、判読が困難な状態となっている〔『博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質』、p.24〕。また、個人所蔵の位牌も残されている〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。戒名は「普顕院英山文雄居士」〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。
大正時代に『山梨県志』編纂のために山梨県下の自治体に配布された調査書「町村取調書」では文吉の人物像について「義侠ニシテ他愛ノ心深シ」と記している〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。
子の宮沢栄吉は画家で「氷堂春信」と号した〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。栄吉は文吉と自身の肖像写真を残している〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.18〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「津向文吉」の詳細全文を読む




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