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摂津国(せっつのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。 == 沿革 == === 古代 === 瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある難波津があり、津国(つのくに)と呼ばれ、港湾都市であり、物流の一大拠点、国内流通の中心だった。 第14代仲哀天皇9年、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)(当時は住吉郡)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀る(住吉大社の始まり)。 593年、推古天皇の摂政聖徳太子は難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を造立した。 645年に孝徳天皇は難波に遷都し、大化の改新と呼ばれる新政はこの地で行なわれた。652年に難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、畿内の外港を抱える要地難波宮を副都とし、国司を置く代わりに、津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた。摂津職は京官とされ、大夫・亮・進・属の四等官で構成された。 前期難波宮は天武期に焼失したが、神亀3年(726年)、聖武天皇が難波宮(後期難波宮)の造営に着手し、平城京の副都とした。天平16年(744年)には恭仁京から難波京への遷都が実施された。聖武天皇は遷都の翌年再び平城京に遷ったが、その後も難波は副都として維持された。しかし、桓武朝の長岡京遷都に伴って難波宮が解体され、副都の実は失われたため、延暦12年(793年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠し、「せっつのくに」とも呼び、また元の津国の訓みそのままに「つのくに」とも呼んだ()。 難波津も土砂の堆積が進み、その機能は淀川分流にある神崎や江口などに移っていった。 清和源氏の祖・源経基の子・満仲は摂津守に任ぜられて河辺郡多田荘に館を構え、またその長子・頼光も摂津守に就き、子孫が所領を継承して摂津源氏と称した。頼光四天王の筆頭に挙げられる嵯峨源氏の源綱は、源満仲の娘婿・源敦(仁明源氏)の養子となり、母方の里である渡辺に居住し、渡辺氏の祖となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「摂津国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Settsu Province 」があります。 スポンサード リンク
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