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椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.372.〕〔''椿三四郎''、日本映画データベース、2012年12月5日閲覧。〕〔''津島慶一郎''、日本映画データベース、2012年12月5日閲覧。〕〔''椿三四郎''、KINENOTE、2012年12月5日閲覧。〕〔''椿三四郎''、日活データベース、2012年12月5日閲覧。〕〔''椿三四郎''、映画データベース、東宝、2012年12月5日閲覧。〕。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)〔〔〔〔映画俳優事典 戦前日本篇 、国立国会図書館、2012年12月5日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 1907年(明治40年)1月3日、東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる〔〔。 1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町の国際活映(国活)に入社する〔。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する〔。同撮影所では助演であったが、同撮影所が閉鎖され、1928年(昭和3年)、京都・等持院の京都撮影所(かつてのマキノ・プロダクション等持院撮影所)に異動になってからようやく認められ、『かげらふの唄』、『街の狼』等に主演して主演俳優としての地位を獲得、同社が崩壊する1931年(昭和6年)10月まで、主演映画への出演は続いた〔〔。高村正次が等持院撮影所に設立した大衆文芸映画社に移籍し、1932年(昭和7年)には2本の映画に出演していることがわかっている〔〔。同社も間もなく解散し、同年11月、高村が東亜キネマを買収して御室撮影所に設立した宝塚キネマ興行に移籍した〔〔。同社でも主演作が続いたが、同社もまた、1934年(昭和9年)2月、解散した〔〔〔御室撮影所 、立命館大学、2012年12月5日閲覧。〕。御室撮影所は、同年9月に田中伊助がエトナ映画社の製作拠点として使用することになり、ここでも数本に出演したが、翌1935年(昭和10年)4月には、同社もまた解散した〔〔〔。 マキノ正博が同年末に新しく開いたトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所に入社、1936年(昭和11年)1月19日に公開された、久保為義監督の『浪人天国』が記録の上では最初の出演作である〔〔。同社では完全に脇役に回る〔〔。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、あるいは第二期入社の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大内照子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくことになり、椿も日活京都に合流した〔〔マキノ、p.338-374.〕。移籍先の日活でも脇役を続けたが、1937年末に退社している〔。 その後、東京に戻り、かつて国活があったのと同じ西巣鴨町(現在の東京都豊島区西巣鴨4丁目)に撮影所を構える大都映画に入社、1940年(昭和15年)1月5日に公開された八代毅監督の『踊る快男児』に、「津島 慶一郎」と名を改めて出演した〔。同社では再び、主演俳優の地位を獲得することができた〔。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、大都映画は合併して撮影所は閉鎖されたが、津島(椿)は同社に継続入社する〔。津島(椿)は、京都に戻り、「津島慶一郎」の名のまま第二次世界大戦の終戦以降も、同社で出演を続けた〔。 1947年(昭和22年)、東横映画が大映第二撮影所(現在の東映京都撮影所)での製作を開始、津島(椿)は東横に移籍、名を「椿三四郎」に戻した〔〔〔。京都の地で、高村正次の新光映画、宝プロダクション、松竹京都撮影所、東映京都撮影所、あるいは宝塚の宝塚映画製作所で、満49歳を迎える1956年(昭和31年)まで脇役での出演を続けた〔〔。このころ映画界を引退し、以降の消息は不明である〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「椿三四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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