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津島 文治(つしま ぶんじ、1898年1月20日 – 1973年5月6日)は、日本の政治家。 作家の太宰治(津島修治)は弟、俳優の津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は、義理の甥にあたる。 == 来歴・人物 == 大地主で銀行家の津島源右衛門(旧姓松木)とタ子(たね)の三男として青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれた。 金木第一尋常小学校から五所川原農学校(現青森県立五所川原農林高等学校)を卒業後上京し、早稲田大学政治経済学部に入学。早稲田大学文学部の同期入学者に井伏鱒二がいた(井伏は学生時代から津島が津軽の大地主の息子であることを噂に聞いていた)。当初は政治評論家を志望。大学時代、長唄の稽古に通う。大学在学中の1922年12月に結婚。 1923年3月3日、大学を卒業。翌日に父が急死したため、津島家の家督を継ぐ。1925年、金木町長に選ばれ、2年間務める。1927年、青森県議選で最高位当選を果たし、最年少の県議となり、2期を務める。 1930年11月、弟修治(太宰)がカフェの女給田部シメ子と心中未遂事件を起こし自殺幇助容疑で鎌倉警察署に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作の息子だったことや、管轄の横浜地裁の所長が黒石市出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使して、修治を起訴猶予処分に持ち込んだ。 1937年4月30日、立憲政友会から衆議院議員選挙に初めて立候補。その若さや家柄から「青森県の近衛公」と呼ばれ、将来を嘱望される。5月1日に開票、第2位で当選するも、5月4日に選挙違反の容疑で五所川原警察署に逮捕される。留置場から衆院議員当選不承諾届と県議辞任届を提出、さらに金木銀行頭取、西北畜産利用組合長、北津軽郡青年団長、神社の氏子総代などの公職をことごとく辞任。のち、公判にて罰金2000円および10年間の公民権停止を言い渡された。以後、第二次世界大戦中は自邸の書斎にこもる日々が続く。 1945年7月、疎開先の甲府で空襲にあった修治の一家を自邸に迎える。 1946年、進歩党から戦後初の衆院選に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年4月10日の選挙において、全県一区(大選挙区制)定員7名中6位で当選。公務のため上京し、東京に住む。 1947年、青森県知事に就任(初代民選知事)。以後、3期(9年余)を務めた。十和田湖湖畔の裸婦像(「乙女の像」)は、津島が高村光太郎に依頼して制作されたものである。1948年、弟・修治が自殺。 1958年から衆議院議員として2期を務め、1965年から参議院議員として2期半余を務めた。なお、その間は自由民主党に所属していた。 1973年5月6日死去。享年75。 私生活では弟・修治(太宰治)の型破りな性格のために衝突をしばしば繰り返した。そのため、弟の自殺後にその名声が高まって文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津島文治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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