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津村 博(つむら ひろし、1901年3月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.373.〕〔''津村博''、''jlogos.com'', エア、2013年6月3日閲覧。〕〔''津村博''、日本映画データベース、2013年6月3日閲覧。〕〔''津村博''、''津村宏''、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月3日閲覧。〕〔''津村博''、KINENOTE, 2013年6月3日閲覧。〕〔''津村博''、allcinema, 2013年6月3日閲覧。〕〔''津村博''、日活データベース、2013年6月3日閲覧。〕〔''津村博''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月3日閲覧。〕。本名樋村 滋男(ひむら しげお)〔〔。 == 人物・来歴 == 1901年(明治34年)3月21日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区小石川地区)に生まれる〔〔。 日本統治時代の台湾・台北州(現在の中華民国台湾省台北市)に移り、旧制・台北州立台北第一中学校(現在の台北市立建国高級中学)に進学、同校を卒業後、旧制・台北高等商業学校(現在の台湾大学管理学院)に進学、同校を1924年(大正13年)3月に卒業している〔〔。同年、内地に渡り、帝国キネマ演芸の俳優であった根津新〔、2013年6月3日閲覧。〕の私的門弟になり、根津が同年の後半に東亜キネマ甲陽撮影所に移籍、津村も同行し、同年12月25日〔(12月24日〔)に公開された『海の悲劇』(監督阪田重則)に出演して、満23歳で映画界にデビューした〔〔。 1925年(大正14年)6月には、牧野省三が東亜キネマを退社、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、津村は、東亜キネマからマキノへ移籍、師の根津は東亜キネマに残った〔〔〔。翌1926年(大正15年)3月12日〔(3月7日〔)に公開されたサイレントの時代劇映画『臆病武士』(監督富沢進郎)で主役に抜擢され、同社の新進スターとして活動を始める〔〔〔〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、津村は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年6月3日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化したが、1931年(昭和6年)7月、同社の解散とともに退社した〔〔〔〔。記録に残る最後の出演作は、1930年(昭和5年)10月31日〔(10月15日〔)に公開された『街の洒落男』(監督稲葉蛟児)であった〔〔。 マキノ退社とともに帝国キネマ演芸に移籍、同年6月10日に公開された『嘆きの都』(監督曾根純三)等に出演したが、同社は同年8月28日、新興キネマに改組され、津村は継続的に新会社に入社した〔〔〔〔。1932年(昭和7年)10月、同社を退社して台湾に戻り、台湾プロダクションを設立し、『義人呉鳳』(監督千葉泰樹・安藤太郎)を製作、これに出演した〔〔〔〔。1933年(昭和8年)には内地に帰って、フリーランサー協会に参加、『決戦高田の馬場』(監督池田富保)等のトーキーに脇役出演する〔〔〔〔。同年、新興キネマに所属する10歳下の女優・水原玲子(当時23歳)との恋愛事件が発覚、翌1934年(昭和9年)9月には水原は同社を退職せざるを得なくなる、という事件が起きている〔キネマ旬報社, p.637-638.〕〔大宅・尾崎, p.152-153.〕。津村はこれを機に、東京へ移り、1935年(昭和10年)には、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、1940年(昭和15年)ころまで映画に出演した〔〔〔〔。 第二次世界大戦終結後の映画の出演歴はなく、その後の消息は不明である〔〔〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津村博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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