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津田 教修(読み不詳、1850年(嘉永3年)9月 - 1907年(明治40年))は、津田一伝流剣術家、日本陸軍軍人。階級は陸軍中佐。栄典は従五位勲四等功四級。陸軍の軍刀術、銃剣術の創設に貢献した〔津田一伝流第二世碑『久留米碑誌』久留米碑刊行会1937.3 P58〕。 == 経歴 == 1850年(嘉永3年)9月、久留米藩藩士、津田一伝流剣術開祖津田一左衛門正之の長男として生まれ、父から剣術を学ぶ。 廃藩後の1872年(明治5年)、22歳で津田一伝流・2代師範役となり〔津田一伝流第二世碑『久留米碑誌』P591875年〕、同8年、陸軍兵学寮に入る〔。 1877年(同10年)西南戦争に従軍〔。 1892年(同25年)陸軍戸山学校教官体操科長となる〔。陸軍戸山学校では津田が中心となり、それまでフランス式であった剣術教範を改正し、日本の剣術や槍術をもとに片手軍刀術、銃剣術を制定に参画した。 その後、日清戦争に第1師団歩兵第2連隊中隊長で従軍し〔「久留米藩剣術御流儀「津田一伝流」について」荒木英之『久留米信愛女学院短期大学紀要10号』1987、p47〕また日露戦争には少佐で後備歩兵第48連隊大隊長として従軍、のち後備歩兵第20連隊長に補せられ、遼東に転戦して武功を立てた〔。この間、それらの軍功により中佐に進み、従五位勲四等功四級を賜った〔。しかし、戦争中大陸で負傷し、1905年(明治38年)8月退役。帰郷療養中、1908年(明治41年)3月13日に没す。 享年58〔。 久留米市本町、無量寺に葬られる〔。 1911年(明治44年)10月門人、旧友によって篠山神社境内に「津田一伝流第二世碑」が建立された〔。碑文は内藤新吾が撰した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田教修」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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