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津田 正勝(つだ まさかつ、天文16年(1547年) - 元和3年(1617年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。加賀藩人持組津田玄蕃家初代当主。正室は畠山氏。子は津田正忠、養子は津田正俊。通称は刑部。別名は斯波義忠(よしただ)、津田義忠、織田清次。官位は従五位下刑部少輔。 ==経歴== 『加賀藩史稿』によると、父は斯波義近(ただし年齢が合わない)。兄・中川重政とともに織田信長に仕え、織田氏を称し後に津田氏に改めた。天正10年(1582年)滝川一益の配下として神流川の戦いに参加。一益の失脚後は豊臣秀次に6600石で仕え、従五位下刑部少輔に叙任。秀次死後は長谷川秀一、松平忠吉に仕えた後に浪人し、京都で隠棲したとされているが、慶長10年(1605年)、豊臣姓を下賜されていることから、何らかの活動を行っていたとも考えられる〔村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。〕。 慶長16年(1611年)、63歳で元同僚の今枝重直の誘いを受けて前田利長に2000石で仕えた。後に前田利常に仕え1000石を加増される。大坂の陣の際は、出陣を希望したが許されず、大坂冬の陣では金沢城、大坂夏の陣では富山城の留守居役をそれぞれ務めた。 元和3年(1617年)、富山城で死去。享年71。家督は嫡男・正忠が相続した。 正勝の子孫は、代々加賀藩の家老を務め、明治に斯波氏に改姓。子孫の斯波蕃が戊辰戦争の功績で男爵に叙され華族となった。また当初、正室・畠山氏の甥・正俊を養子としたが、実子・正忠が誕生したため、正俊は蜂須賀家政に仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田正勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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