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津田 秀水(つだ しゅうすい、1896年5月6日 - 1963年3月8日)は、日本の活動弁士、映画監督、俳優、実業家である。本名金太郎(-きんたろう)〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「津田秀水」の項(p.262)を参照。同項執筆は田中純一郎。〕。無声映画全盛時代のスター弁士として、映画に主演、監督もした。 == 来歴・人物 == 1896年(明治29年)5月6日、東京市芝区(現在の港区芝)に生まれる〔。 早稲田実業学校(現在の早稲田実業学校高等部)を卒業、河辺紫水に師事、映画説明者(弁士)となる。23歳となる1919年(大正8年)ごろには浅草公園六区の映画館「帝国館」を舞台に、洋画の説明を行ない、その端麗な容姿と弁舌のスマートさから、当時の「弁士番付」で「大関」となる〔。 1920年(大正9年)、前年3月にD・W・グリフィス監督の超大作無声映画『イントレランス』(1916年)の日本での興行で財をなし、国際活映を立ち上げて「天然色活動写真」(天活)を買収したばかりの「帝国館」の経営者小林喜三郎がサポートし、津田は「映画協会」を設立、同年に2作を製作・監督し、主演もした。第1作『熱球』は近藤伊与吉脚本・共同監督、押山保明字幕により4月17日、第2作『山頂の碑』は押山保明脚本・字幕・共同監督により11月26日に「帝国館」ほかで公開された。出演した大辻司郎、細川天流らは徳川夢声とならぶ当時の人気弁士、黒田達人は「浅草オペラ」で知られる「根岸大歌劇団」のバス歌手であった〔。 その後は映画を製作することも出演することもなく、弁士としてひきつづき活躍し、トーキー以降は、芝区三田町(現在の港区三田)の「三田演芸館」の経営者として過ごしていた〔。1959年(昭和34年)、60代になってから、日活映画にカメオ出演的に顔を出した。 1963年(昭和38年)3月8日、脳内出血で死去。66歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田秀水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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