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津田 重久(つだ しげひさ、天文18年(1549年) - 寛永11年(1634年))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。山城国に生まれた。津田高重の子。官途は従五位下遠江守。通称は与三郎。号は道供。子に津田平蔵、津田重次、津田重似。 室町幕府第15代将軍足利義昭に仕えたのち、明智光秀に仕え、天正10年(1582年)本能寺の変では織田信長の籠る本能寺を攻める明智軍の先鋒を務めた。山崎の合戦で羽柴秀吉らに明智光秀が敗北した後は高野山へ逃れたが、翌年に赦されて秀吉に仕え、豊臣秀次の付属とされた。文禄3年(1594年)8月、秀次の奏請で今枝重直ら他の家臣と共に豊臣姓を賜り、重久は従五位下遠江守に叙された。 秀次自害の後、慶長元年(1596年)子の平蔵とともに前田利長に召し出され、4,000俵で家臣となった。同時期に前述の今枝重直も前田家臣になっている。 慶長5年(1600年)前田家の北陸方面の戦いに参加し、関ヶ原の戦いの前哨戦たる西軍の山口宗永の加賀大聖寺城を攻めた。この大聖寺城の戦いで武功を挙げ、戦後は大聖寺城代を務めた。慶長10年に致仕し次男の重次が家督を継いだ。寛永11年、86歳で没した。 ==参考文献== *日本人名大辞典(講談社) *三百藩藩主人名事典(藩主人名事典編纂委員会) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田重久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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