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津軽 信政(つがる のぶまさ)は、陸奥国弘前藩の第4代藩主。 == 生涯 == 正保3年(1646年)7月18日、弘前城で第3代藩主・津軽信義の長男として生まれる。明暦元年(1655年)に父が死去したため、明暦2年(1656年)2月2日に家督を継いで藩主となる。しかし幼少であったため、しばらくは叔父に当たる幕府旗本(のち黒石藩)の津軽信英が補佐を務めた。信政は幼少期から聡明な人物で、山鹿素行に師事して儒学や兵学を学び、吉川惟足の師事も受けて神道を学んだ。惟足からは吉川神道の奥義を授けられている。 こうして成長した信政は、自らが藩政を取り仕切るようになると、津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大、野本道玄を招聘しての養蚕、織物、製糸業、紙漉の発展・育成などに努めた。民政においても善政を敷き、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げた。万治3年(1660年)、西津軽の新田開墾の灌漑用水源として築造された津軽富士見湖は現存し、堤長は延長4.2kmで日本国内のため池・ダム中で日本最大の長さである。。 文化面においても、豊田雅一や渋江道陸ら40名にも及ぶ文化人を全国から招聘して藩の文化発展に努めた。 対外的には寛文9年(1669年)の蝦夷におけるシャクシャインの蜂起鎮圧〔津軽藩部隊700名を率いて蝦夷に展開したのは、石田三成の孫に当たる杉山吉成。杉山は津軽帰還後江戸に上り、幕府に現地情勢報告をしている。〕、天和3年(1683年)の日光山宮普請役などで功績を挙げている。 しかし晩年の貞享4年(1687年)、下野烏山藩主・那須資徳(信政・三男)の相続問題で幕府より叱責を受けたうえ、烏山藩那須氏改易という、那須家のお家騒動に巻き込まれる(武家の名門である那須家は、交代寄合1,000石として存続した)。 元禄8年(1695年)、藩内を襲った大飢饉で3万人以上の死者を出すなど、藩政にも行き詰まりが見え始める。元禄16年(1703年)にも播磨赤穂藩における旧浅野氏藩士処分に際して失態事件を起こすなど〔津軽藩は以前、吉良義央を接待した際、「おかずは良いが飯がまずい」と言われた事があり、吉良を快くは思っていなかった。〕〔津軽藩の支藩(支流)である黒石藩(この当時は大名ではなく幕府旗本)の当主の津軽政たけの亡妻は吉良義央の娘であり、事件直後に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義理の父の遺体を発見したと伝わる。また赤穂浪士らは幕府からの追手と共に、この黒石津軽家と津軽藩からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したとされている。〕〔信政の兵学の師である山鹿素行の、また別の教え子が討ち入りの中心人物である大石良雄である。〕〔元・赤穂藩士で大石良雄らと縁戚の津軽藩士大石無人は、当初吉良邸討ち入りに参加しようとしたり、赤穂浪士らに資金面で援助を続けるなどした。事件後信政は大石無人を呼び出し、詳細の報告を受け、これを褒めたと伝わる。家老の瀧川統伴(家老北村宗好嫡男)は赤穂浪士に同情し、翌年に弘前市内の白道院(遍照寺)に供養塔を建てた。これを藩に咎められ、数年後の宝永5年(1708年)に免職・閉門、翌年に知行(1,000石)没収の上で隠居処分となった。〕、次第に信政自身にも老耄が見え始め、藩政は衰退の一途をたどった。このような中で宝永7年(1710年)10月18日、弘前にて死去し、跡を次男の信寿が継いだ。享年65。 晩年は失態を重ねたが、それでも弘前藩の全盛期を築き上げた手腕は高く評価され、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主と言われている。 遺言により、弘前市内の高照神社に藩祖の津軽為信と共に祀られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津軽信政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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