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津軽曾我氏(つがるそがし)は、陸奥国平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士。 == 沿革 == 当初においては関東に所領を有していた形跡がなく、曾我氏庶流として早くから得宗被官となり、建保5年(1217年)、陸奥国平賀郡岩館に一族の平(曾我)広忠が地頭代として着任し、貞応元年(1222年)には曾我五郎二郎が入部して同3年(1224年)に地頭職となった。 その後、曾我氏は太郎助光の系統を嫡流の大光寺曾我氏、小二郎惟重の系統を庶流の岩楯曾我氏と分かれ、本家は大光寺に、分家は岩楯に居城した。 正慶2年(元弘3年(1333年))鎌倉幕府が滅亡し、執権北条氏の一族の安達高景、名越時如らが、御内人の曾我道性を頼って11月に津軽の大光寺楯(青森県平川市)に拠ったが、陸奧国司北畠顕家の命を受けて岩楯曾我光高や、田舎郡の成田泰次・工藤貞行らが宮方に付き、翌 正慶3年(元弘4年(1334年))にかけ合戦が続いたが、大光寺曾我氏の入道道性は捕らえられ、その子重経は戦死して大光寺曾我氏は滅亡した。 岩楯曾我氏は平賀・岩楯・沼楯の旧領を支配し、岩楯と大光寺城を居城に勢力を拡げたが、建武2年(1335年)7月に北条氏残党による中先代の乱が勃発すると、足利尊氏は北条時行を敗って乱を鎮圧したあと、後醍醐天皇の帰還命令を無視し、そのまま鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せたため、曾我光高が姻戚の片穂氏から伝領した沼楯の所領の安堵をめぐる不手際や賦課等の問題などがあり、南朝方に対して反旗をひるがえし、尊氏の北朝方に属した。 曾我氏は元中年間(1380~92年)に根城南部氏によって滅んだとされる。詳細は不明であるが、本来、曾我氏に伝来しているはずの所領や軍中関係をはじめとした様々な古文書が八戸(遠野)南部家文書として伝来されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津軽曾我氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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