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津金 胤臣(つがね たねおみ、1727年10月23日 - 1802年1月22日)は、江戸時代中期の武士。一般的には津金 文左衛門(つがね ぶんざえもん)の名で知られる。 == 略歴 == 享保12年9月9日、尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市東区平田町)で、尾張藩士・津金胤忠の長子として生まれる〔『瀬戸市史 陶磁史篇 三』、P.30〕。幼名は薪之丞。津金氏は甲斐武田の家臣であったが武田勝頼が滅びたのちに尾張へ移り住んだもので、尾張藩に仕えて胤臣で7代目であった〔『飛島村史 通史編』、P.535〕。 寛保2年(1742年)、父・胤忠が急逝したため15歳で家督を継ぎ、馬廻や藩主・徳川宗睦の世子である徳川治休の小姓を経て守役を務めた。漢学を須賀精斎・亮斎親子に、和歌を冷泉為泰に学ぶなど〔『飛島村史 通史編』、P.536〕学問に親しむとともに武術にも秀で、また経済・土木など実学にも長けた人物であったという。この後、宝暦13年(1763年)36歳にして金方納戸役となり、その後も明和元年(1764年)に勘定奉行、安永6年(1777年)に先手物頭と要職を歴任。寛政元年(1789年)には62歳の高齢ながら錦織奉行となった〔。 寛政3年(1791年)には熱田奉行兼船奉行に任ぜられ、寛政12年(1800年)から熱田前新田〔現在の名古屋市港区。名古屋市交通局名港工場付近に「熱田前新田」の地名が残る。〕の干拓事業を指揮。また、晩年には海西郡で飛島新田(現在の海部郡飛島村)干拓に携わったが、これの完成した享和元年12月19日に病没。享年76。 墓所は大須の大光院に置かれていたが、1952年(昭和27年)に改葬されている。なお、この改葬の際のアクシデントがきっかけで、死後150年を経て切腹説が流布することとなった〔『瀬戸市史 陶磁史篇 三』、P.10〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津金胤臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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