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洪 承疇(こう じょうちゅう、1593年10月16日(万暦21年9月22日) - 1665年4月3日(康熙4年2月18日))は、中国明末清初の官僚・武将である。字は彦演、号は亨九、福建省泉州南安英都鎮の人。 明の進士として農民反乱の鎮圧に成果をあげて崇禎年間には兵部尚書に昇進し、さらに薊遼総督となってからは北東部の対清戦線の総責任者として防衛を指揮したが、後に清朝に降伏した。帰順後はドルゴンの信任を得て漢人大学士の筆頭として明朝の政治制度を移植して清朝の統治機構の基礎を構築し、南明征伐も指揮した。 だが明の遺臣の間では当然としても、清朝内でも(特に清朝の統治が安定して以降は)降将である洪承疇には「主君を裏切った」という評価が付きまとい〔乾隆年間に編纂された『清史列伝』では「弐臣(節操のない臣下)」に列せられている。〕、現在でも「清初の功臣」・「弐臣」と評価が分かれている。 == 農民反乱の平定 == 洪承疇は1617年(万暦44年)に進士となり、出世を重ねて1627年(天啓7年)に陝西布政使参政となる。 崇禎年間の初めに大規模な農民反乱が起こり、1629年(崇禎2年)に韓城が反乱軍の王左桂に包囲されると、陝西総督楊鶴(zh)に命じられて洪承疇が救援に向かう。洪承疇は韓城を救って大いに名をあげ、1630年(崇禎3年6月)に延綏巡撫に任命される。 上官の楊鶴は反乱軍に対して招撫政策をとっていたが、反乱軍は不利になると投降しては機をみてまた離反していたため、洪承疇は賊将を果断に対処した。1631年(崇禎4年)に楊鶴の招撫策が効果なしと更迭されるとその後任として洪承疇が陝西三辺総督に任命され、正式に方針を殲滅に転換した。これ以降、洪承疇は各地の農民軍を撃破していき、反乱軍は活動の拠点を山西省に移していく。 1634年(崇禎7年2月)、これまでの省単位の軍事行動ではたえず移動する農民反乱軍に効果的に対応できないものとして、軍隊を一元的に運用するために各省の巡撫・総督の上位に五省総督〔五省総督:山西・陝西・河南・湖広(湖北・湖南両省)・四川の5省の農民反乱軍を殲滅する特任官。〕が置かれた。総督には陳奇瑜(zh)が任命され、洪承疇もその配下に編入された。ところが同年旧暦6月、反乱軍を車箱峡(zh)まで追い込んで包囲した陳奇瑜は、李自成の偽の投降に騙されて反乱軍を取り逃がし、失脚してしまう。これを受けて1635年(崇禎7年12月)、洪承疇はこれまでの陝西三辺総督はそのままで、太子太保・兵部尚書の役職を加えられた上に五省総督も兼任することになった。 1635年(崇禎8年1月)に各地の農民反乱軍は滎陽で一堂に会し(滎陽大会(zh)〔滎陽大会については、同時代の史料のうち記載されているものが少ない事、各地の反乱軍がどうやって滎陽に集まったかなど不明な点が多い事から、実際には開催されていないものという意見が出ている。〕)、高迎祥の属将である李自成が各反乱軍が協調して明と戦うべきと主張して頭角を現した。この動きに対して洪承疇はまず河南省に入り、反乱軍の大部分が陝西省に移ると軍を取って返した。この時李自成は咸陽を破って西安に迫り、高迎祥・張献忠は官軍に牽制されて河南に入った。 このように反乱軍が絶えず移動する事から、明の朝廷は改めて地域ごとに分担して重点的に進撃を行う方針に転換した。1635年8月、盧象昇(zh)を五省総督にして、専ら中原を治めさせ、洪承疇には北西部を治めさせた。 1636年、関中の専任監督を命じられた洪承疇は、臨潼で民軍を破る。洪承疇の部将である孫伝庭が子午谷で闖王高迎祥を打ち破り、敗走した高迎祥は捕らえられ、北京に送られて処刑された。闖王の称号は李自成〔高迎祥の闖王と区別するために「李闖」とも言う。〕が引き継ぎ、農民反乱軍の首領となる。 崇禎11年10月(1638年)に洪承疇は李自成の軍を撃破する。李自成はわずか18騎で敗走して商洛に逃げ込み、反乱は下火になる。しかしその直後に、ホンタイジの南進に対抗するために宣大総督に転任していた盧象昇が戦死すると、北方戦線を優先した崇禎帝は洪承疇を後任として転任させる。これにより李自成は息を吹き返す機会を得た。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洪承疇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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