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洲崎球場(すさききゅうじょう)は、かつて東京都江東区新砂一丁目付近(当時の東京府東京市城東区)に所在した木造の〔巨人が初V決めた幻の球場、会社員が模型で再現 YOMIURI ONLINE(読売新聞 2013年12月2日 夕刊14面)〕野球場で、1936年に開場。 == 概要 == 日本プロ野球草創期、上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つとなっていた。一応は大東京軍の本拠地球場として建設されたが〔20世紀遺跡:近現代史をめぐる/32止 東京・洲崎球場跡 毎日新聞 2013年3月20日 東京朝刊〕、実際は当時フランチャイズ制が敷かれていなかったこともあり、東京巨人軍もよく試合をしていた。 大東京軍の球団常務だった鈴木龍二(戦後、セントラル・リーグ会長)の回顧録によると、もとは東京瓦斯の所有地であったという〔鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』恒文社、1984年、P39 - 40。〕。 1936年10月13日〔大修館書店刊「近代体育スポーツ年表1800-1907」164〕 に3ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年には92試合もの試合が開催された。しかし、海側にありカニが這いずり回っていたといわれ、満潮時にはグラウンドが海水につかってコールドゲームになることもしばしばあり〔一例として、1938年3月15日の巨人対名古屋金鯱軍ダブルヘッダー第二試合が満潮のためにコールドゲームとなっている。出典:大修館書店刊「近代体育スポーツ年表1800-1907」164ページ〕、環境的に良くなかったため、水道橋に後楽園球場ができると翌年1938年には僅か3試合の開催に激減した。結局、1943年頃解体された。 1945年(第二次世界大戦終戦年)の地図には既に記載は無く材木置場となっていたといわれ、その後敷地の一部が帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄)に譲渡された。 洲崎球場で行われた試合の中では、1936年の巨人対タイガースの沢村栄治、景浦将が出場した優勝決定戦は語り草になっている〔2010年代になって、この試合を記録した2分程度の動画フィルムが神奈川県で発見され、NHKによる画像修正作業を経て2015年6月11日のNHK総合「クローズアップ現代」で放送された。〕〔『幻の“日本シリーズ”~フィルムからよみがえる選手たち~ 』 NHK総合『クローズアップ現代』2015年6月11日放送〕。また、1937年7月17日のイーグルス対金鯱戦は観客僅か90人だったといわれ、ワースト記録として今なおプロ野球史に残るとされる。ただし、この日付で開催されたプロ野球はイーグルス対大東京戦(ダブルヘッダー)であり、今ひとつ信ぴょう性のある話とは言えない。 川上哲治のプロデビュー戦もこの球場であった。 近くに洲崎遊郭(洲崎パラダイス)があり、プロ野球選手も試合後などに良く通っていたと言われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洲崎球場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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