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浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町西小札場(にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する〔長谷川周、2000、『仏塔巡礼 西国編』、東京書籍 ISBN 4487795966 p.34〕。 本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。 == 歴史 == 浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。 浄瑠璃寺の創立については、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじ るきのこと)が唯一の史料である。『流記事』はいわゆる「縁起」の形式を取らず、寺の歴史に関わる事項について箇条書き風に書かれたもので、観応元年(1350年)に古記を書写したものであるが、この時に筆写されたのは永承2年(1047年)から貞応2年(1223年)までの歴史に関わる部分で、それ以後、永仁4年(1296年)から観応元年までの歴史については、新たに書き継がれている。〔(肥田、1987)、pp.21 - 22; (近畿文化会編、1990)、pp.45 - 46〕 以下、『流記事』の記載に沿って初期の沿革を記す。永承2年(1047年)、義明上人により本堂が建立され、檀那は阿知山大夫重頼であった。これら2名の人物については、この『流記事』の記載以外にほとんど知られるところがない。義明については『流記事』の注記から当麻(現・奈良県葛城市)出身であることが知られるのみである。阿知山大夫重頼については、他の記録(『興福寺官務牒疏』)に「佐伯氏」とあるが、これも定かではなく、当地方の豪族とみられる。この永承2年が浄瑠璃寺の創建年とみなされている。この時の本堂は、『流記事』によれば1日で屋根を葺き終えているので、小規模なものであったことがわかる。〔(肥田、1987)、pp.22 - 23; (近畿文化会編、1990)、p.46; 『日本建築史基礎資料集成 5』、p.40〕 それから干支が一巡した60年後の嘉承2年(1107年)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。ただし、「西堂」についての具体的な説明はない。『流記事』はここで別の記録(『戒順坊阿闍梨日記』)を引いて、この時に旧本堂を取り壊して、そこに新本堂を建立し、翌年に仏像の開眼供養をしたと説明している。この記録から、当寺の当初の本尊(本仏)が薬師如来であったことがわかり、寺号も薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界に由来することがわかる。現・三重塔本尊の薬師如来坐像が当初の本尊であった可能性も指摘されている。また、この嘉承2年に建立された新本堂が、現存する国宝の本堂であるとするのが通説である。それから50年後の保元2年(1157年)には本堂を西岸に「壊渡」したとの記録がある。「壊し渡す」とは、「解体して移築した」の意に解釈されている。「西岸」とは、池の西岸、すなわち、現存する本堂の建つ位置にほかならない。それ以前の本堂が寺内のどの場所にあったかは定かでないが、地形等からみて、池の北岸にあったとする説もある。〔(肥田、1987)、pp.23 - 27; (近畿文化会編、1990)、pp.47 - 48; 『日本建築史基礎資料集成 5』、p.40〕 中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浄瑠璃寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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