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浅井嘉浩 : ミニ英和和英辞書
浅井嘉浩[い]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 

浅井嘉浩 ( リダイレクト:ウルティモ・ドラゴン ) : ウィキペディア日本語版
ウルティモ・ドラゴン[い]

ウルティモ・ドラゴン(Ultimo Dragon、1966年12月12日 - )〔名前の''Ultimo''(ウルティモ)はスペイン語で「究極」(英語の''Ultimate''と同意語)のこと。〕は、日本男性プロレスラー。本名は浅井 嘉浩(あさい よしひろ)。愛知県名古屋市港区出身。特に覆面レスラーとして、日本国内だけでなくアメリカメキシコでも著名な存在。得意技の「ラ・ケブラーダ」は、アメリカマット界ではアサイ・ムーンサルトと呼ばれているが、その名は本名の「浅井」から取られている。
== 来歴 ==
名古屋市立工業高等学校卒業後、新日本プロレスの入門テストを受け、体力テストはクリアするも体が小さいことを理由に不合格となるが、日本ボディービルセンターの会長のもとで手伝いをしながら会長から山本小鉄に紹介してもらい、道場で練習してもよいと許可をもらい、半年ほど道場に通い続ける。
1987年メキシコに渡り、ロス・ミッショネロス・デ・ラ・ムエルテ戦でデビュー。パートナーは畑浩和佐野直喜
1990年ユニバーサル・プロレスリング旗揚げに参加し、エースとして団体を引っ張る。1991年にオファーを受けてEMLL(現:CMLL)に進出し、覆面レスラー「ウルティモ・ドラゴン」に変身した。当時EMLLがWWF(現:WWE)と提携関係にあったことから、日本国内でもWWFと業務提携していたSWSに主戦場を移した。
SWS崩壊後はWARに入団し、ジュニアヘビー級のエースとして活躍。その後1996年よりWCWに進出、メキシコ・アメリカ・日本と国内外で活動するが、後述のプロレス学校設立とWCWでの活動を優先するため翌1997年にWARを退団。1998年夏、WCWでの試合にて負傷した左肘関節のためアメリカで受けた手術が失敗してしまい神経を損傷、レスラー生命の危機となる(現在でも後遺症で握力が小学生並しかなく、左手首を引きつける動きができない)。
1997年にメキシコ・ナウカルパン市にルチャドール養成学校「ウルティモ・ドラゴン・ジム」を設立、闘龍門の旗揚げ戦を行った。1999年兵庫県神戸市中央区に闘龍門JAPANを設立。その後、2002年に現役復帰し、WWE、新日本プロレスに参戦した。
2004年に闘龍門JAPANがDRAGON GATEとなって独立すると、個人で2度の自主興行を後楽園ホールで行い、ウルティモ・ドラゴンのキャラクターを封印すると宣言した。しかしプロモーター側からの要望などにより、封印宣言以後もメキシコではウルティモ・ドラゴンとして試合を行っている。日本国内では、2005年より2代目ザ・タイガーに変身して活動している。
2010年みちのくプロレス参戦中、突然ルード軍「九龍」の最後の一人(ボス)となり、その後はみちのくプロレスではヒール転向しルードスタイルのマスクで参戦した。(後に九龍分裂時に正規軍に戻り、マスクも以前のスタイルに戻した。)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウルティモ・ドラゴン」の詳細全文を読む




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