|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 井 : [い] 【名詞】 1. well ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)に起こった北陸地方における前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の戦い。 == 経緯 == 慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、次の天下人の座をめぐって徳川家康が台頭する。これに対して、豊臣氏擁護の立場から、豊臣氏五奉行の一人である石田三成や大谷吉継らが慶長5年、会津征伐に向かった徳川家康ら東軍に対して、敢然と挙兵したのである。 前田利長は豊臣氏五大老の一人で、前田利家の嫡男であったが、利家の死後、生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した。 *青木一矩(北之庄城8万石) *青山宗勝(越前丸岡4万6000石) *織田秀雄(大野5万石。織田信長の次男・織田信雄の子) *木下頼継(2万5000石) *丹羽長重(加賀小松12万5000石。信長の家臣だった丹羽長秀の子) *丹羽長正(越前東郷5万石。長重の弟) *戸田重政(越前安居1万石) *奥山正之(1万1000石) *赤座直保(1万石) *上田重安(1万石) *溝江長晴(1万石) *山口宗永(加賀大聖寺5万石) *山口修弘(1万3000石。宗永の長男)。 吉継の勧誘工作は成功であった。これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功したのである。これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人の大軍を率いて慶長5年7月26日、西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。小松城の守備兵は長重以下、およそ3000名ほどに過ぎなかったが、小松城は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で圧倒的優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。そして8月2日に包囲攻撃を開始したのである。守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害した。 一方、大谷吉継は伏見城攻防戦など、上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが、8月3日に入ってようやく越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。 吉継は前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流したのである。この流言に前田利長は動揺した。 さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)という人物を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせた。その文面は次の通りである。 「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」 これら一連の吉継の謀略から、利長は自分の留守中に居城の金沢城が吉継に海路から襲われることを恐れた。そして8月8日、利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅井畷の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|