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浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日-)は、日本の演出家、実業家である。劇団四季創設者の一人で、劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた。 東京都出身。永田町小学校(現麹町小学校)〔『昭和の歴史三部作』公演プログラム 2005年〕、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退〔浅利慶太に聞く「劇団四季の半世紀」 〕。特選塾員。慶應義塾評議員。 == 来歴・人物 == 1953年7月、慶應義塾大学、東京大学の学生を中心に劇団四季を結成した〔。主に、ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後東京田辺製薬にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら〔『一橋ビジネスレビュー』第52巻、p.117(東洋経済新報社、2004年)〕、日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した〔『財界』第29巻、第14~20号(財界研究所、1981年)p.87〕。 また、1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する〔『週刊東洋経済』第 5081~5085号、1992年、p.88〕〔『新世紀』第187~189号、2000年、p.30〕。 1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。1966年から1975年まで越路吹雪リサイタル公演を日生劇場において演出した。 かつて実妹と共に優秀な日本共産党員で、選挙戦や山村工作隊時代を戦ってきたが、実妹が左翼演劇人の劇団で裏切りに遭って自殺、それ以後、浅利慶太自身も左翼陣営を離れた〔『ゴシップ10年史』(三一新書)p.219〕。1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘や石原慎太郎などの政治家との関係〔ただし、石原は「劇団四季」に自身の脚本を提供したり、日生劇場の運営にも取締として関わるなど政治家になる前から浅利との関係はあった。〕を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を大劇団へと成長させる。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた〔『朝日年鑑』1984年版、p.394〕。中曽根や石原のブレーンとしても知られていたうえ、先述どおり政界との繋がりをおおいに利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判されたが〔紺野一彦『劇団四季の謎』(ベストブック、2003年)〕、 このように権力との関わりが密接である〔大笹吉雄『戦後演劇を撃つ』p.198(中央公論新社、2001年)〕〔『中央公論』第115巻、第4~5号、2000年、p.317〕にも関わらず、一切の国家的顕彰を拒否しており、過去に紫綬褒章や文化功労者の内示があったときも、辞退している〔文藝春秋「私のはこう読んだ」 〕。 1985年12月ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」の上演を行っている。 1993年には大韓民国の盧泰愚大統領と会談、盧泰愚は、そのなかで朝日新聞をはじめとする日本の言論機関が慰安婦問題に関連して韓国内の反日感情をいたずらに煽っていることに苦言を呈している(『文藝春秋』平成5年3月号)。 2006年10月、政府の教育再生会議委員に就任。 2014年6月、四季株式会社の取締役社長を退任。 2015年3月、新事務所の浅利演出事務所を設立し社長就任。劇団四季とは別に独自の演劇活動を開始。第1弾公演は劇団四季でも公演した『オンディーヌ』で、劇団四季はJR東日本アートセンター自由劇場を提供し協力〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅利慶太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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