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浅利 牛蘭(あさり ぎゅうらん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、鷹匠。浅利氏の家臣。比内八木橋城城主。のちに鷹匠として織田信高、その後会津蒲生氏郷の鷹匠頭として手腕を振るった。また鷹絵師としても日本各地に作品群を残す。これまでその生涯の詳細は不明な部分が多く、特に鷹絵師としての研究が待たれた。近年急速な作品の発見や解明が成されて実像が明らかになってきた。 == 生涯 == 門脇典膳と高屋氏出身の母の間に誕生したとされる。本名は政吉(まさよし)、大館比内地方では浅利牛蘭の通称で知られている。この通称名には多くの当て字がなされているが、本項では牛蘭と統一して解説する。 天文年間に出羽国比内郡の国人浅利氏総領浅利則頼の女(松の方)の婿となって浅利氏を名乗り、比内八木橋城主となる。永禄5年(1562年)、内紛により主君・浅利則祐が自害すると主家を出奔し、鷹匠として上洛。越前国敦賀に逗留し日本画を学んで鷹絵工房を創り、天正10年(1582年)、敦賀に転封した城主蜂屋頼隆から橋本姓を賜り、橋本長兵衛を名乗る。なお、その多くの作品印譜は「橋本」であり、牛蘭名は雅号ではない(後述)。 天正10年(1582年)3月、織田軍の甲斐武田攻めに先立ち、牛蘭が勤仕した信長の七男織田信高は兄信忠の命で美濃垂井に配された。同年6月2日の本能寺の変において牛蘭は安土城の織田信長の妻子を蒲生賢秀・氏郷親子と共に蒲生氏本城である日野郷へ避難させた。同年10月19日付け文書(秋田藩家蔵文書)によれば、織田信高の鷹匠頭を勤め、信高が大垣城主・氏家直昌/(行広)に養預されたのに伴い、牛蘭も追随したと考えられる。そのためか岐阜県・三重県周辺に牛蘭製作と思われる作品が多数散在する。また、天正13年の頃、信高の兄信秀が羽柴姓を与えられた時、その仲介で豊臣秀吉に仕えるが、この折り秀吉子飼の津田小八郎(姫路城の縄張りをした人物)と出会い、牛蘭は鷹飼の免許皆伝を与えた。『宮内庁文書』 文禄年間に入ると、蒲生氏郷の鷹匠頭として勤仕し全国を行脚した。またその頃の逸話として『南部叢書』に「浅利汲欄天狗を討つ」という内容の掲載がある。これは九戸政実の乱平定の時、総大将蒲生氏郷に従軍した経緯から南部に伝承されたと考えられる。 慶長3年(1598年)1月、浅利氏棟梁・浅利頼平が安東氏との物成争議で上洛中に急死すると、頼平の妻子を保護し秋田へ移転する。その後、慶長7年(1602年)秋田へ佐竹氏が転封するのを機に牛蘭は旧知の須田盛秀を頼り、浅利氏三家の子息を連れて横手に流落し、それぞれが鷹匠として給地を得た。慶長3年(1598年)頼平急死の事案は後に牛蘭に対する疑義を与えたが冤罪となった。これは昭和17年(1942年)東北帝国大学の大島正隆氏が東京大学史料編纂室に在籍した折に発表した『北奥大名成立過程の一断面 ―比内浅利氏を中心とする考察―』論文の最後の行で誤った書き方をしたため事実無根の罪を負ってしまった為である。しかしその頼平謀殺関与の冤罪は正しく証明されている。 慶長18年(1613年)正月25日死去。 母方からの養子である盛吉は、慶長19年(1614年)11月の大坂冬の陣に一兵卒浅利長兵衛として出征したが、ここで功名を遂げ、上役からの指示で高名帳には高屋五左衛門と記帳し、ここから高屋氏を名乗った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅利牛欄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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