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浅利頼平 : ミニ英和和英辞書
浅利頼平[あさり よりひら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

浅利頼平 : ウィキペディア日本語版
浅利頼平[あさり よりひら]
浅利 頼平(あさり よりひら、生年不明 - 慶長3年1月8日1598年2月13日))は、安土桃山時代武将出羽国比内郡国人浅利氏の最後の当主。別名に久義。父は浅利勝頼。弟に頼広。子に広治
== 生涯 ==
天正10年(1582年)、父・勝頼が安東愛季に暗殺されて以来、被官として従属していたが、独立心が強く、浅利氏再興を目指す頼平は次第に安東氏からの離脱を画策する。その動きを察知した安東実季は、文禄年間に豊臣秀吉惣無事令(私闘禁止令)を犯し、比内浅利領に攻め入る。
文禄5年(1596年)2月、安東・浅利合戦の停戦命令が出され、同年4月には紛争の裁定が下る。裁定は頼平の蟄居と共に秋田安東氏の軍役指示に従うとする内容であったが、この紛争は収まりがつかず、中央政権の中で再度くすぶり始める。慶長元年(1596年)12月、片桐且元が仲裁に入るが、翌慶長2年(1597年)9月秋田・浅利紛争はさらに続き、頼平は被害状況を報告する。この紛争を巡り豊臣政権の裁定は、秋田安東氏の肝煎佐々行政長束正家木村重茲が支持、浅利方は浅野長吉が肝煎で前田利家徳川家康が暗に支持という矢留(停戦)趨勢となる。
紛争解決が膠着している最中の慶長3年(1598年)1月、陳情のため上洛した頼平は突如急死。当主を失った比内浅利氏は事実上瓦解した。秋田安東氏の毒殺説が流れたのに対して、慶長4年(1599年)3月、実季は阿部正勝へ弁明書を提出。それによると天正18年から文禄5年までの浅利氏物成未進分があり、これが紛争の原因であり未解決のうちに頼平は死去したと報告された。

category:戦国武将


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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