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浅原 熊雄(あさはら くまお、1920年 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。 ポジションは捕手。 ==来歴・人物== 徳山商業では1934年に第11回選抜中等学校野球大会に出場した。卒業後に林兼造船に進み、アマチュア屈指の捕手として活躍した。1947年に生じた野球部を巡る林兼造船と親会社の大洋漁業との対立をきっかけ〔この年、下関遠征にきた明治大学野球部が下関に遠征にきたが、初戦の林兼造船野球部は明治大に勝利したにもかかわらず、次の試合を行った大洋漁業野球部は都市対抗野球の常連であったにもかかわらず明治大に敗れてしまった。これに激怒した大洋漁業の中部兼市社長は弟である林兼造船の中部利三郎社長に命じて林兼造船硬式野球部を活動停止処分にして浅原や有村家斉ら林兼の主力選手を大洋の選手として出場させることとした。(佐竹、2009年、P109-110・132)〕に大洋漁業の選手として出場することになる。1950年にまるは球団(大洋ホエールズ)が創設されるとそのまま同球団に入団し、二軍の主将になったが、親会社である大洋漁業が社会人野球チームのオール下関を結成すると、浅原は林兼造船の意向で開幕をまたずしてオール下関に移籍となった〔新球団に移籍したものの、社会人時代の選手に拘らずに補強すると言う中部兼市の方針の下に二軍暮らしを余儀なくされていることを知った林兼造船の中部利三郎が浅原を呼び戻してオール下関に加入させた。(佐竹、2009年、P286-289。なお、P288掲載のオール下関の集合写真は浅原提供のもの)〕。オール下関で活躍し、引退後は母校の徳山商業などで監督を務めた。大洋退団から56年後の2006年9月7日の広島対横浜戦は当時の大洋の本拠地であった下関市で行われ、その始球式に地元出身で創設時に捕手だった浅原に球団関係者が打診し、同じく山口県出身である元西鉄ライオンズの池永正明と共に始球式に登場し、56年ぶりに大役を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅原熊雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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