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浅子覚 : ミニ英和和英辞書
浅子覚[あさこ さとる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

浅子覚 : ウィキペディア日本語版
浅子覚[あさこ さとる]

浅子 覚(あさこ さとる、1971年3月2日 - )は、日本の元男性プロレスラーであり、現在はプロレスリング・ノア所属のプロレスのメディカルトレーナーである。埼玉県大宮市(現:さいたま市)出身。愛称はリーダー(後述参照)。
== 来歴 ==
埼玉県立浦和東高等学校出身。
新日本プロレス学校卒業生。元々から全日本プロレスに憧れていたが、事情あって新日本プロレス学校に入学。一緒に練習していた西村修の話によると、非国民的な扱いを受けながらも黙々と練習に励んでいたそうである。1990年全日本プロレス入門。背も低く、体も小さかったので、ジャイアント馬場は当初入団に難色を示していたが、丁度SWSへの選手の大量離脱があり、レスラー不足から入門を認められたと言われている。1991年4月4日岡山武道館でのリチャード・スリンガー、浅子覚組対百田光雄井上雅央組でプロレスデビューを飾る。
全日本プロレス時代は、三沢光晴率いる超世代軍の一員として活動。ジュニアのエースとして期待され、二代目タイガーマスク時代の必殺技・ウルトラタイガードロップを伝授された。その後大森隆男高山善廣が結成したノーフィアーに、リーダーとして加入。ノーフィアーにおける浅子のリーダーとしての仕事は、サプリメントの支給、キャプテン大森、ボス高山のメンタル面のケアが主だった、と後に高山善廣は語っている。
全日本プロレスが分裂した際、浅子は三沢らに続いてプロレスリング・ノアに移籍する。ノアに移籍後は全日時代以上にノーフィアーのリーダーとして活躍した。
2001年9月5日には当時GHCジュニアヘビー級王者だった金丸義信とタイトルマッチを行う。結果は23分27秒、垂直落下式ブレーンバスターで敗北。
2001年11月に試合中、首を負傷。その後復帰を目指してリハビリに努めていたが、2002年7月に引退を発表。2002年7月26日に引退試合を代々木第二体育館にて実施。浅子本人の希望で、超世代軍時代の仲間である三沢、小橋建太とのタッグを結成し、田上明、井上雅央、橋誠組と対戦した。引退試合の入場は、三沢、小橋、浅子とも、その当時既に用いていなかった超世代軍時代の衣装・入場曲を用いた。試合は怪我をしている首を狙われ、終始苦戦を強いられたが、三沢、小橋との連携から雪崩式フランケンシュタイナー、SDAとたたみかけ、25分42秒橋からピンフォールを奪い取った。
引退後は三沢社長に勧められ、整骨院での実践教育と専門学校での勉強を行いながら、ノアのトレーナーに転向。選手の試合後のケアなどを行っている。また、プロレスリング・ノア中継の解説も担当している。また、今までに二度ほどレフェリーも務めており、転向をささやかれているが、レフェリングはコメディタッチである。
2006年柔道整復師の試験に合格した。巡業でのトレーナー業務と整骨院での実践教育を兼務しながらの必死の猛勉強だったらしく、試験当日の夜には高山や鈴木みのるらから「お疲れ様会」が開かれたと言う。この資格により、臨機応変にトレーナーとして働くことが出来るようになった。
また、この浅子の資格を取得するまでの猛勉強は、プロレスラー廃業した後の転職の難しさを物語り、三沢や秋山準らがレスラー引退後の土台作りが必要であると考えさせられ、秋山の副業を興す理由の一つともなっている。
現在はノアトレーナーと両立し、ノア公認の接骨院「あさこ接骨院」を千葉県市川市にて経営している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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