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菊本 久夫(きくもと ひさお、1909年7月18日 - 1937年6月20日)は、日本の俳優である。本名は不詳、マキノ時代は浅尾 大三郎(あさお だいざぶろう)、マキノ家の人間ではないがマキノ 久夫(-ひさお)と名乗っていた〔。26歳で夭折している。 == 来歴・人物 == 1909年(明治42年)7月18日、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に生まれる。祖父は、国際活映に所属した俳優の実川延十郎である。1921年(大正10年)の旧制小学校卒業後、11歳で尾上華幸に入門、尾上菊五郎一座の一員として初舞台を踏む。1925年(大正14年)6月からは、祖父・延十郎とともに1年間にわたって、各地を巡業した〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「菊本久夫」の項(p.183)を参照。同項執筆は吉田智恵男。〕。 1926年(大正15年/昭和元年)12月、17歳で京都のマキノ・プロダクションに入社、「浅尾大三郎」となる。さっそく、翌1927年(昭和2年)1月21日公開の金森万象監督の『狼火』でデビューする〔。同年10月14日に公開されたマキノ省三監督、月形龍之介主演の『盛綱』で共演した同世代のマキノ登六、マキノ潔、林正美(マキノ政美)とともに「マキノ」姓を命名され、1928年(昭和3年)、「マキノ久夫」となる。これにマキノ梅太郎を加えた五人組で、「マキノ青年派」を結成し、その結成第1作『神州天馬侠 第一篇』は同年2月3日に公開され、同年中に全4作が製作された〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「マキノ登六」の項(p.529)を参照。同項執筆は盛内政志。〕。 1931年(昭和6年)1月、嵐寛寿郎の嵐寛寿郎プロダクションに入社、「菊本久夫」となる〔。1932年、山中貞雄の監督デビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差』に「本田三郎太」役で出演するほか、同社で60作以上に出演したが、1937年(昭和12年)6月20日、27歳の誕生日を目前にして死去。26歳没。最後の出演作となった『御存知鞍馬天狗 千両小判』は、没後1か月の同年7月29日に公開された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊本久夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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