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浅田家文書 : ミニ英和和英辞書
浅田家文書[あさだけ もんじょ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
田家 : [でんか, たい]
 (n) rural cottage
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
文書 : [ぶんしょ, もんじょ]
 【名詞】 1. document 2. writing 3. letter 4. paperwork 5. note 6. records 7. archives
: [しょ]
 【名詞】 1. penmanship 2. handwriting 3. calligraphy (esp. Chinese)

浅田家文書 : ウィキペディア日本語版
浅田家文書[あさだけ もんじょ]

浅田家文書(あさだけ もんじょ)とは、山城国相楽郡西法花野村(現・京都府木津川市山城町上狛)の浅田家(戸籍上では淺田)に伝来した古文書(18,120点)。
西法花野村庄屋文書、狛四ケ村文書、野日代村庄屋文書、狛組(加茂組)大庄屋文書、近代地方行政・諸役職関係文書、浅田家・家文書、大和郡山茶町文書、岡崎村文書、下島村文書、相楽村河辺善右衛門関係文書の各まとまりからなる。これらの文書の初出期は天文15年(1546年)、終期は大正年間。
== 概要 ==
山城国相楽郡西法花野村(現・京都府木津川市山城町上狛)の庄屋である浅田家の文書が、1930年頃、現16代当主・淺田周宏(昭和21年(1946年)~)の祖父・14代淺田操の時代に当家を離れ、渋沢敬三の主宰する日本常民文化研究所に入り、戦後になって東京大学経済学部へ寄贈されたのは、1950年代前半のことである〔東京大学経済学部蔵(淺田家旧蔵)『浅田家文書仮目録』(東京大学経済学部図書館文書室、1986年)http://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/?page_id=1908〕〔東京大学経済学部蔵(淺田家旧蔵)『浅田家文書仮目録<続>』(東京大学経済学部図書館文書室、1992年)http://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/?page_id=1908〕 。
浅田家文書は、このほかにも国立史料館に200点余り所蔵されており、さらに、山城町史編纂の過程で新たに発見された分もある。町史編纂に当っている山城町教育委員会の調査によると、東京大学経済学部と国立史料館の所蔵文書は本宅である浅田 (北)家文書であることが判明し、隠居宅である浅田(南)家からも別個に2000点近い文書が発見され、浅田(南)家文書フィルムの複製分13リールが納められている。続いて、1985年9月に、浅田(北) 家からも茶箱3個分程の未整理文書が発見され、山城町史編纂委員会の手によって整理が行われた。そのほか、天理大学図書館などにも若干所蔵されている。
浅田家は単に西法花野村の庄屋であるだけでなく、18世紀には近隣の13か村の上にも立つ大庄屋となるため、同家文書を通じてかなり広い範囲の史実を探ることが可能である。この地域は山城国一揆の基盤をなしたところであり、江戸時代に入ると先進的な棉作地帯として発展する。そして、幕末開港を契機に製茶地帯として急激な変貌を示す地域なのであって、畿内農村のひとつの典型例とみることも可能である。
慶安3年(1650年)には持高25石余にすぎなかった浅田家が、宝永1年(1704年)には180石をこえる地主豪農へと急成長する秘密はどこにあったのか。これまで全く分析されたことのなかった浅田家文書から、多くの論文などが執筆された〔吉田ゆり子『兵農分離と地域社会』─歴史科学叢書 校倉書房 2000/11/15 ISBN4751731408
〕 。
== 浅田家の歴史 ==
淺田家系図によると、「本国」は摂州浅田(大阪府豊中市蛍池、江戸期は麻田村)で、板倉周防守家中の浅田孫助の弟・小三郎(上狛村庄屋・九郎右衛門?)が天正年間に山城国上狛に来たという(天正8年(1580年)の上狛村桑垣外の売券あり)〔石井寛治・林玲子編『近世近代南山城:綿作から茶業へ─「浅田家系図」(小川幸代・作成)』東京大学出版会, 1998,3 ISBN4130460609
〕 。
天正10年(1582年)に豊臣秀吉による指出徴収がはじまる。この年の九月に興福寺が秀吉に差し出した二冊の年貢帳があるが、それは当地である「狛野荘」の差配人二人が提出したものである。
上狛村の「検地」は関白秀吉の時代、長束正家によって天正17年(1589年)に 本格的に施行されるが、これにより「荘園制」が解体され、上狛村という村域が確定されることになる。
そしてこの検地により新参者の淺田家は上狛村の庄屋に任命されるのである。
当地は「山城国一揆」が発生した地域であり、その主謀者であった「狛氏」一族の本拠であったから、そこに楔を打ち込もうという秀吉方の思惑の使命を受けたものと推察されている。
のち徳川家康の天下となり、当地は藤堂高虎の津藩の支配下となる。この辺り一帯の大庄屋として君臨するようになるまでには、さまざまのことが生起するが、それらを乗り越えて淺田一門が伸びてゆくことになる。
16世紀末から17世紀にかけての当地における浅田家の位置づけは、天正年間に上狛村に来住した淺田九郎右衛門は豊臣政権の後ろ盾もあって、新参者ながら御牧勘兵衛代官所時代に庄屋となったが、持ち高も名寄帳の第五位である。
当地は狛氏支配の頃から在所を囲む「環濠」のある集落であった。この囲いの中を「垣内」と称する。この垣内を単位とする地域的な結合として、年貢・算用は1,300石の「」が組織され四人の庄屋が選ばれたが、淺田家は親(二代目道善?)が慶長10年代に40歳代で若死したためその子はまだその中には入れなかったが、元和9年(1623年)から庄屋に就任して「惣」に取り込まれた。
しかも浅田家は17世紀半ばまでは経済的に他の百姓から突出した存在ではなかった。むしろ、同じ株内では「狛」旧臣の松井家と同規模であり、上狛村としてみるならば他の庄屋と同等の経済力であったと推定される。
ところが、17世紀後半に浅田家は持ち高を急速に伸ばし、他の百姓から突出してゆく。
そのような経済的な発展をもたらしたのは、浅田家の江戸進出による富の蓄積と、それを元にした土地の取得にあった。
この経済的発展により、旧来の在地の年寄衆である松井家を追い落とし、外の庄屋の追随を許さない大庄屋として、更に地位を向上させていくことになる〔吉田ゆり子『兵農分離と地域社会』─歴史科学叢書 校倉書房 2000/11/15 ISBN4751731408
〕 。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浅田家文書」の詳細全文を読む




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