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浅田 次郎(あさだ じろう、1951年(昭和26年)12月13日 - 、本名非公開〔『週刊プレイボーイ』2013年5月27日号(同13日発売)掲載の『人生道場』第50回〕〔非公開としているが、 * 板津直孚著『若駒たちの軌跡 駒場東邦中学高等学校38年の回顧』(2003年、文芸社。ISBN 978-4835563572)P185 * 杉朋会総会(平成15年度) 浅田次郎氏講演会 - 杉朋会 - 中央大学杉並高等学校 同窓会(2003年05月25日)などで閲覧可能である。〕)は、日本の小説家。血液型はA型。日本ペンクラブ会長。 陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 2011年日本ペンクラブ会長。2013年現在、直木賞、柴田錬三郎賞、山本周五郎賞選考委員。 == 来歴 == 9歳まで東京都中野区鍋屋横丁(旧・上町〔浅田 p.146「江戸ッ子の風呂好き」〕)で育ち、以後、都内を転々とすること18回〔浅田 p.223-225「まぼろしのふるさと」〕。エッセイやメディアなどでは神田出身とも述べている〔浅田 p.24「台北の街角で」〕。母の実家は奥多摩の御岳山(みたけさん)の宮司を務めていた〔浅田 p.154「改宗について」〕〔浅田 p.12「東京の霊山」〕。家業はカメラ屋だった〔浅田 p.217「面割れ」〕。生家は神田で喫茶店を営んでいた(バブル期に閉店〔浅田 p.149「多様性と二者択一」〕)。戦後のどさくさにまぎれて闇市で父が一旗上げて成金になり〔浅田 p.210「光と風の記憶」〕〔浅田 p.245「知恩院と私」〕、父の見栄で杉並区の私立のミッションスクールに運転手付きの外車で通い(電車通学もした)、メイドがいる裕福な家庭で育った〔浅田 p.110「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」〕〔浅田 「寄り道」p.65〕。 9歳の時に家が破産〔浅田 p.146「普遍なる芸術」〕、両親は離婚し〔浅田 p.67「大丈夫の道」〕、母は失踪〔浅田 p.12「禽獣について」〕、しばらくの間、親類に引き取られた〔。間もなく、母に兄と浅田を引き取る目処がつき3人暮らしが始まり、貧しいながらも駒場東邦中学校を受験し〔浅田 p.12-14「学而」〕、第11期生として入学したが、読書の時間が取れないことを理由に〔浅田 p.336-337「旧友について」〕高校1年の時に同校を去り〔〔浅田 p.36「邂逅について」〕、2学年より中央大学杉並高等学校へ転入し、1970年(昭和45年)に同校を卒業〔浅田 p.73-75「骨のかけら」〕〔浅田 p.133-134「立身について」〕(5期生〔〔杉朋会総会(平成15年度) 浅田次郎氏講演会 - 杉朋会 - 中央大学杉並高等学校 同窓会(2003年05月25日)〕)。13歳の時に集英社の『小説ジュニア』に初投稿して〔浅田 p.285「出陣について」〕以降、数々の新人賞に応募と落選を続け、30歳ぐらいの時に群像新人賞の予選を初めて通過した(最終選考には残らなかった)〔浅田 p.263-264「由来について」〕。 青春時代の知的シンボルで憧れの存在だった三島由紀夫が三島事件を起こし、“世界中がまっしろになるような”大きな衝撃を受け〔浅田 p.84-86「三島由紀夫について」〕〔浅田 p.101「書斎という名の戦場」〕、陸上自衛隊に入隊、第32普通科連隊に所属。当初エッセイでは「2度目の(大学)受験に失敗し、食いつめて自衛官になった」と、三島に影響を受けたことを否定していた〔浅田 p.13-14「こうなった経緯について」〕〔〔浅田 p.177-178「信仰について」〕 が、後にこの動機は事実であると告白している〔浅田「寂寞の庭にて―三島由紀夫の戦場」『文學界』2000年11月号(『ひとは情熱がなければ生きていけない』講談社文庫 p.17-43)〕。基礎訓練後に配属されたのは、東京出身だったこともあって奇しくも三島が自害した市ヶ谷駐屯地だった〔〔。在職時は、「おまえは実戦ならまっさきに戦死だ」などと言われていた〔浅田 p.102「おもさげながんす」〕。なお、『きんぴか』には、三島由紀夫の自殺に衝撃を受けた経験を持つ元自衛官が登場する。高校時代に小説家を志し原稿を出版社に持ち込んだ帰り道、ボディービルジムにいる三島を見かけたことがある〔原稿を持ち込んだ神田駿河台下の出版社で浅田の面倒を良く見てくれた人物がたまたま三島の担当編集者で、三島に会わせてくれる約束をしたが、実現する前に三島事件が起きた。〕。1973年春に自衛隊を任期満了で除隊〔浅田 p.140-141「転属命令について」〕。元々、小説家になりたいと思っていたが、自衛隊生活も思いの外気に入っていたことや、第一師団司令部への転属の誘いもあり、辞めるべきかどうか深く悩んだという〔浅田 p.140-144「転属命令について」〕。小説家になるという昔からの夢を叶えるために除隊、入隊中の2年間の遅れを取り戻すべく、小説を書く時間が取れる仕事〔本人曰く、借金取り、用心棒、私立探偵、ぼったくりバーの客引き、ネズミ講の講元など。〕をしながら習作や投稿を続けたが、一向に日の目を見ることはなかった〔。 婦人服販売会社を営む傍ら〔浅田 p.126-127「プリズンホテルの思い出」〕、雑誌ライターとして、インタビュー、書評、風俗ルポ、競馬予想など注文に応じて様々なテーマの記事を書き、記名原稿の場合は、その都度記事に合った異なるペンネームを使用していた。ヤクザの抗争事件が頻発していた頃、ヤクザの日常生活や事件の解説をヤクザ側の人間になりきって書く「極道エッセイ」の連載を依頼された。『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』のヒーロー花田秀次郎の名をペンネームとして拝借しようとしたが、校了当日に編集部から「やはりこの名前はまずい」と言われ、時間がないまま、たまたまその時机の上に置いてあった、出版社から突き返された小説のボツ原稿(初めて新人賞の予選を通過した小説)の主人公の名前「浅田次郎」が「花田秀次郎」と3文字一緒だったこともあり、それをペンネームにした。1990年から『週刊テーミス』で連載された「とられてたまるか! 」は好評で、1991年に学習研究社から単行本化された。同作に注目した複数の出版社から「極道小説」という制約付きでいくつか小説の依頼を受けるようになった。極道ものから初めて脱却した『地下鉄に乗って』を書いた時にはペンネームを変えるべきか悩んだという。今となっては、(五十音順で)書店で探しやすい、サインがしやすいなどの利点も感じているという〔浅田 p.176 - 179「ペンネーム」〕。 当初の作品傾向から悪漢(ピカレスク)小説を中心とした作家としての認知が先行したが、『きんぴか』刊行から間もなく、徳間書店の編集者から依頼を受け、1992年、“将来この路線に埋もれることのないよう”に、“かけがえのない習作”として『プリズンホテル』を執筆〔。1995年に『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞を受賞した際に初めて新聞に著作の広告が載り〔地下鉄の中吊り広告にも初めて載り、徳間書店の担当編集者に誘われて見に行き、記念撮影をした。〕、「売れない小説家」という家族の見方を覆した〔浅田 p.182-183「暴言について」〕。その後は、清朝末期の宮廷を舞台に宦官を主人公とした大作『蒼穹の昴』が1996年に第115回直木三十五賞(直木賞)の候補作となり、受賞は確実視されていたが欠点を指摘する選考委員も少なくなく落選、当時『週刊現代』で連載していたエッセイ「勇気凛凛ルリの色」で落選を「敗北」と表現し、悲嘆にくれる文章を発表した〔川口則弘『直木賞物語』2014年、バジリコ、p.382 - 384、ISBN 978-4-86238-206-1〕。落選し憔悴しきり、「もう書けない」と泣く浅田を女性編集者が叱咤激励し、書き上がった作品が「角筈にて」(『鉄道員』に収録)であった〔浅田 p.275-276「栄光について」〕。翌1997年、『鉄道員』にて第117回直木賞を受賞した際には、同じく『週刊現代』のエッセイで受賞の喜びを「栄光」と表現し〔川口『直木賞物語』p.387 - 390〕、4週に渡ってその喜びを、家族や編集者への感謝の気持ち〔浅田 p.274-280「栄光について」〕〔浅田 p.294-299「天使について」〕、受賞の連絡の瞬間〔浅田 p.281-287「出陣について」〕、受賞後のパニック〔浅田 p.288-293「パニックについて」〕など、様々な角度から伝えた。直木賞受賞後は講演などの仕事も増え、非常に多忙になったが、自衛隊で培った自慢の体力で過酷なスケジュールをこなしている〔浅田 p.183「男の本領について〈私の自衛隊経験〉」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅田次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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