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金龍館(きんりゅうかん、1911年10月1日 開業 - 1991年 閉鎖)は、かつて存在した日本の劇場、映画館である。大正期後半の「浅草オペラ」の時代、「根岸大歌劇団」の根拠地となった。その後は松竹洋画系のフラッグシップ館として知られ、戦後、浅草ロキシー映画劇場(あさくさロキシーえいがげきじょう)として洋画を、のちに浅草松竹映画劇場(あさくさしょうちくえいがげきじょう)として邦画を上映した。 == 略歴・概要 == === ジゴマと浅草オペラ === 1911年(明治44年)10月1日、東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草1丁目26番)、「常磐座」の隣地に開業した。同敷地は、常盤座を経営する根岸興行部社主の根岸浜吉が、1907年(明治40年)4月に開かれた上野での「東京勧業博覧会」で建てられた「日本初の観覧車」を移設した場所であった〔「日本初の観覧車 」の記述を参照。このページでは当時の写真も見られる。〕。 開業の翌月の同年11月、京橋の映画会社福宝堂(のちの日活の前身の一社)が、フランス映画『ジゴマ』のプリントを輸入して『探偵奇譚ジゴマ』のタイトルで、同館の活動弁士・加藤貞利の解説で封切り、大ヒットとなった。これが「日本初の洋画のヒット」と言われる。金龍館は、福宝堂のフラッグシップ館で、福宝堂製作の作品をすべて公開した。1912年(明治45年)に福宝堂は4社合併で日活になり、1914年(大正3年)2月15日公開の桝本清監督の『谷底』を最後に、日活のフラッグシップを離れた〔日本映画データベース「谷底 」の項ほかの記述を参照。〕。 1913年(大正2年)にはさらにならびに洋画の封切館「東京倶楽部」を開業、1916年(大正5年)5月1日には、常磐座・金龍館・東京倶楽部の「3館共通入場券」(2階20銭、1階10銭)を導入した。このころの同館では曾我廼家五九郎の芝居を上演しており、のちの映画監督の松本英一が勤務していた〔 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「松本英一」の項(p.377)を参照。同項執筆は岸松雄。〕。同館の文芸部には、20代の高田保がいた。 1919年(大正8年)2月18日、金龍館では、清水金太郎・静子夫妻が、日本館の「東京歌劇座」を離れて、田谷力三らと結成した「七声歌劇団」の旗揚げ公演を上演した。 同年5月1日、伊庭孝が、高木徳子と設立した歌舞劇協会を、高田雅夫らとともに改組して「新星歌舞劇団」を結成したが、翌1920年(大正9年)9月3日、根岸興行部の根岸吉之助はこれを同社専属とし「根岸大歌劇団」とさらに改称、金龍館は同歌劇団の拠点となった。初演は同年10月11日、伊庭孝作詞、竹内平吉作曲、高田雅夫コレオグラフによるオペラ『釈迦』であった。1921年(大正10年)末、根岸興行部は金龍館を大改築し、同年12月31日に再オープンした。1922年(大正11年)3月20日、「根岸大歌劇団」がジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』を金龍館で初演、同作のコーラス・ボーイとしてで17歳の榎本健一(エノケン)がデビューした。当時のコーラス・ボーイに藤原釜足がいた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で金龍館は壊滅、1924年(大正13年)3月、「根岸大歌劇団」は解散した。根岸興行部は松竹の傘下に入り、金龍館は復興に向かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金龍館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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