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凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。12階建てだったので「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で半壊し、解体された。 == 概要 == 凌雲閣は、起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった 〔国民新聞 明治23年11月12日 〕。また、凌雲閣株式会社が設立され〔『日本全国諸会社役員録. 明治27年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、のちに社長として写真家で東京市議会議員であった江崎礼二が就任した 〔風俗画報『浅草公園』(明治30年)〕。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と考えられる〔郵便報知新聞 明治23年1月10日〕。電話設備は宣伝を目的として沖牙太郎が担当した〔港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎) 、第2回 起業、そして事業拡大へ|時代とOKI|OKI 〕。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。 展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた〔風俗画報第23号pp.12-13 (明治23年12月10日号)〕。 1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ〔細馬宏通『浅草十二階 増補新版』(青土社, 2011年)〕。なお設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている〔 喜多川周之「浅草十二階とバルトン」(「浅草双紙」昭和五三年、浅草の会)〕。 浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していた。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。 1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。なお、浅草寺の五重塔(木造33m。東京大空襲で焼失)は無傷であった。経営難から復旧が困難であったため、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。 image:Ryounkaku.jpg|崩壊した凌雲閣 image:Ryounkaku destruction Great Kanto earthquake.jpg|徳永柳州「第一震十二階の倒壊」 image:Ryounkaku before and after Great Kanto earthquake.JPG|震災前後の凌雲閣(絵はがき) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「凌雲閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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