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浅見 安之丞(あさみ やすのじょう、天保4年(1833年)- 元治2年1月14日(1865年2月9日))は、幕末の人物。徳山藩士。徳山七士の一人。名は正虔、号は伯恭、烟渓。浅見栄三郎(正欽)の長男で、弟は同じく徳山七士の一人である兒玉次郎彦。 安政元年(1854年)、学館の句読師に挙げられ、大島流槍術の指南役を兼ねた。万延元年(1860年)に小姓役となり、文久 元年(1861年)には徳山藩主・毛利元蕃に従って江戸に赴き、翌年京に入る。 文久3年(1863年)3月、御親兵に選ばれ、4月の石清水八幡宮行幸の日には三条西季知の警護に当たる。八月十八日の政変後、急いで帰国してこれを報じ、次いで世子・毛利元功の学業指導を命ぜられた。 元治元年(1864年)7月、学館の訓導役に転じたが、保守派が政権を握ると、本城清、信田作太夫と共に捕らえられ、獄に繋がれる。元治2年(1865年)1月14日、保守派に「流刑が決まった」と新宮の浜(現在の出光興産徳山製油所付近)に連れ出され、絞殺された。享年33。 藩論回復後、徳山藩主・毛利元蕃は、殉難七士の家を復興し、その遺族を優遇した。明治になってから、徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。周南市の児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅見安之丞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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