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浅野 啓司(あさの けいし、1949年2月22日 - )は、広島県福山市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、11ページ〕出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、解説者。 == 来歴・人物 == 広島県福山市草戸町出身。創部3年目の福山電波工業高校に進学し、には2年生エースとして夏の甲子園広島県予選で活躍。低めに球を集める抜群の制球力で、伊原春樹のいた北川工業、山本和行、三村敏之のいた広島商業高校を撃破。50イニングを投げ失点1と決勝まで勝ち上がったが、広陵高校の河本和昭投手に完封され敗退、甲子園出場を逸する〔。高校の1学年下の後輩に村田兆治がいる。 3年時に別の選手を見に来ていたサンケイアトムズのスカウトの目に留まり、の第1次ドラフトでサンケイから9位指名され入団。高卒ルーキーながら、いきなり50試合に登板し8勝を挙げた。には鈴木皖武に代わり、抑えの切り札として起用される。チーム合計33勝だったには先発に戻り、前半だけで6勝を挙げるが、後半は故障で離脱。その後も先発陣の一角を占め、に14勝、に12勝を挙げる。 しかし、翌年に腰を痛め登板機会が減少、監督の広岡達朗の指導法も合わず、には巨人に移籍。この移籍は浅野の対巨人戦成績がよかったために巨人好きと言われたヤクルトオーナーの松園尚巳からのプレゼントとも言われた。同年9勝4敗1セーブをあげ、カムバック賞を受賞する。その後も中継ぎ、抑えとして長く活躍を続けるが、限りで現役引退。 オーバースローの本格派右腕で速球に威力があり、制球力も相応にあった。変化球はカーブ、シュート、シンカー、フォーク。松岡弘や安田猛らとともに、主力投手として10年間で70勝を挙げ、ヤクルト不遇の時代を支えた。 5月25日の対巨人戦では長嶋茂雄に通算2000本安打を打たれている。また王貞治が756号本塁打を記録した9月3日の対ヤクルト戦で完投勝利を記録している。 その後、からまでラジオ日本・テレビ朝日の解説者を務めた。、古巣・ヤクルトの二軍投手コーチに就任。からは日本ハムの一軍投手コーチを務め、からは二軍投手コーチ。からまで台湾プロ野球・中信ホエールズ投手コーチ〔。より元阪神、ロッテの藤倉一雅らとともに、元プロ野球選手としては初めて、大学野球部の指導者になることに決まった。、正式に白鴎大学監督となるが、同年度限りで退任。、同じ元プロ野球選手の古葉竹識が監督の下、東京国際大学の投手コーチに就任。6月限りで退任。在任中には伊藤和雄を送り出した。 2016年からは横浜DeNAベイスターズで二軍巡回投手コーチを務める。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野啓司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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