翻訳と辞書
Words near each other
・ 浅野川線
・ 浅野川電気鉄道
・ 浅野工学専門学校
・ 浅野幸長
・ 浅野建二
・ 浅野弘樹
・ 浅野弥兵衛
・ 浅野忠
・ 浅野忠信
・ 浅野忠吉
浅野忠敬
・ 浅野忠純
・ 浅野忠長
・ 浅野恭司
・ 浅野愛子
・ 浅野愛香
・ 浅野慶熾
・ 浅野懋績
・ 浅野拓磨
・ 浅野拡


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

浅野忠敬 : ミニ英和和英辞書
浅野忠敬[あさの ただひろ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 

浅野忠敬 : ウィキペディア日本語版
浅野忠敬[あさの ただひろ]
浅野 忠敬(あさの ただひろ、享和元年12月8日1802年1月11日) - 安政7年1月1日1860年1月23日))は、江戸時代末期の広島藩の家老。安芸国広島藩筆頭家老で三原領3万石10代当主。浅野忠順の養子。藤堂監物信任の次男として伊勢国に生まれた。母は、8代当主の浅野忠正の娘。幼名、挺二郎。通称、甲斐。子に浅野忠英(敬五)、秀子(池田政昭室)。
== 人物 ==
文化11年(1814年)、14歳の時に家督を継ぎ三原領主、広島藩家老となった。
文化13年(1816年)、広島の自邸内に講学所(のちに朝陽舘)を設け、江戸より湯浅正平を招聘し儒学を学ばせた。また、文政3年(1820年)7月、三原城に明善堂を設置し、備中国内から西山孝恂を招聘し初代教頭とし、文政8年(1825年)8月、安芸国賀茂郡下市村より、石井儀右衛門(号・豊州)を招聘し2代目教頭とした。
文政11年(1828年)6月、三原城北隅櫓の石垣孕出の補修するにあたり、図面を添付し、老中青山忠裕に申請をし、文政13年(1830年)4月老中連署の奉書により許可を得て、天保3年(1832年)5月江戸に行き、7月1日に江戸城に登城し、将軍徳川家斉に拝謁し、礼を述べている。
忠敬は囲碁を好み、天保6年(1835年)頃より、囲碁に強く、漢詩を能くした備中国賀茂郡下野村宝泉寺10世教甫(号・葆真(ほしん)、または竹原(ちくげん))と親交した。また、この年にまだ7歳であった安田栄斎(のちの本因坊秀策)を教甫に師事させ自ら禄を与えた。栄斎はのちに江戸に修行に行き、十四世本因坊秀和の跡目となった。
天保7年(1836年)7月、饒津神社(当時は二葉御社)の社殿造営に石燈籠2基を献備した。また、天保12年、広島の自邸を修繕改築した。
天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に義弟(養父の実子)の浅野忠に譲り隠居した。安政7年(1860年)、広島にて61歳で没す。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浅野忠敬」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.