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浅野 正恭(あさの まさやす、慶応3年12月28日(1868年1月22日) - 1954年(昭和29年)10月20日)は、明治・大正・昭和初期の日本海軍の軍人。海軍中将正四位勲二等功五級。予備役後、退役後、新宗教「大本」に入信、脱退後は弟 浅野和三郎の心霊研究団体に参画。和三郎の死後その団体の主導的役割を担い、著作も多い。軍人時代に「あさのしょうきょう」と表記したことがある。 == 経歴 == === 出生 === 浅野正恭は、茨城県の最南部の利根川下流のほとり、源清田村(現・茨城県稲敷郡河内町)に生まれる。代々医を生業とする浅野家の、父元斎(げんさい)(婿入り)と母かんの次男〔#神の罠11頁〕。和三郎は三男〔。 === 海軍での経歴 === *1885年(明治18年)11月21日 海軍兵学校に入学。 *1889年(明治22年)4月20日 海軍兵学校を卒業(海兵15期)。 *1892年(明治25年)12月21日 海軍大学校丙号学生(1893年(明治26年)卒業) *1896年(明治29年)7月7日 海軍兵学校砲術教官兼監事 *1899年(明治32年)9月29日 海軍少佐 *1900年(明治33年)2月12日 砲術練習所教官兼海軍機関学校教官 * 6月14日 海軍機関学校教官と陸軍要塞砲兵射撃学校教官を兼任。 *1902年(明治35年)1月18日 海軍大学校選科学生 *1903年(明治36年)7月7日 海軍大学校教官 *1905年(明治38年)1月12日 防護巡洋艦「松島」副長・海軍中佐 *1907年(明治40年)2月28日 戦艦「鹿島」副長 *1907年(明治40年)12月10日 再び海軍大学校の教官となり、1911年(明治44年)まで務める。 *1910年(明治43年)3月19日 海軍大佐 * 12月1日 造船監督官としてイギリス出張し、1911年(明治44年)4月まで務める。 *1913年(大正2年)12月1日 一等戦艦「朝日」艦長 *1914年(大正3年)12月1日 呉工廠砲煩部長・造兵監督官 *1915年(大正4年)12月13日 海軍少将(勅任官) *1919年(大正8年)6月1日 海軍技術本部出仕 * 12月1日 海軍中将・待命 *1920年(大正9年)8月1日 予備役 *1932年(昭和7年)12月28日 海軍を退役〔『日本海軍史』第9巻、将官履歴上。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野正恭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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