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浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.12.〕〔''浅野進治郎''、''jlogos.com'', エア、2012年12月17日閲覧。〕〔''浅野進治郎''、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月17日閲覧。〕〔''浅野進治郎''、KINENOTE, 2012年12月17日閲覧。〕〔''浅野進治郎''、映画データベース、東宝、2012年12月17日閲覧。〕〔''浅野進治郎''、映連データベース、日本映画製作者連盟、2012年12月17日閲覧。〕。本名同じ。旧芸名:浅野 信二郎、浅野 進二郎、浅野 象二郎(あさの しょうじろう)ほか、表記の揺れがある〔''浅野象二郎''、日活データベース、2012年12月17日閲覧。〕〔''浅野進二郎''、日活データベース、2012年12月17日閲覧。〕〔''浅野信二郎''、日活データベース、2012年12月17日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる〔〔〔。 新劇を志し、開校された新国劇付属演劇研究所に第1期生として入所、澤田正二郎(1892年 - 1929年)らの指導を受け、1923年(大正12年)8月に同所を卒業している〔〔。同研究所の同期には草間実、根本淳、第2期生には金平軍之助らがいた〔〔キネマ旬報社, p.196.〕。まもなく関東大震災を経験し、1924年(大正13年)には、水谷竹紫、初代水谷八重子らが同年に設立した第二次芸術座に参加する〔。1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に入社、端役で映画界にデビューした〔〔。当初は現代劇に出ており、もっとも古い出演記録は、1931年(昭和6年)2月13日に公開された木村次郎監督のサイレント映画『暁の唄』であり、「浅野 信二郎」と名乗った〔。 1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、浅野はこれに参加、芸名を「浅野 進二郎」と改める。準主役級の待遇を受けたが同社は1937年(昭和12年)4月に解散、葉山純之輔、大内弘ら大半の俳優は新興キネマへ移籍したが、浅野はゼーオー・スタヂオや協同映画でのトーキーに出演を経て、マキノらの移籍した日活京都撮影所に移籍する〔。1939年(昭和14年)3月15日に公開された稲垣浩・マキノ正博共同監督による『袈裟と盛遠』に出演、「浅野 象二郎」に改名した〔。 第二次世界大戦の終結後、最初に映画に出演したのは、1950年(昭和25年)1月10日公開、太泉映画製作、東京映画配給配給、小杉勇監督による『なやまし五人男』であった〔〔。同作以降、芸名を「浅野 進治郎」に変更、フィックスした〔〔。 1960年代以降、テレビ映画にも進出、1979年(昭和54年)ころまでの出演記録が確認できる。同年に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)には、存命中であるとして東京都杉並区下井草の連絡先が記されているが〔、満75歳を迎えた同年以降の出演記録が見当たらず、以降の消息も不明である。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野進治郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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