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浜崎 真二(はまざき しんじ〔浜崎真二 とは - コトバンク 〕、1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手)・野球指導者・解説者。 現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していた〔現役最年長・工藤のライバル? 「浜崎真二」がスゴすぎる | web R25 〕。また、身長は150cmから160cmまでいくつかの説があり、日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがある〔日米の長身&小兵選手/メモ - 日刊スポーツ 、週刊ベースボールONLINE - Find - 掲示板SNS 、48歳で白星の浜崎 2リーグ制開始で駒不足の時代 ― スポニチ 〕〔殿堂一覧|公益財団法人野球殿堂博物館 浜崎真二 〕。 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の主審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 == 経歴 == === 中等学校野球 === 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。藤村富美男や鶴岡一人、広岡達朗など呉出身の著名選手は皆この近辺の出〔asahi.com:ニッポン人脈記「〈甲子園アルバム3〉「藤村」コール3代7人 、【ありがとう八十年(45)】広岡達朗、生まれ育った海軍の街で培った“軍律” 、【ありがとう八十年(46)】広岡達朗、器械体操で鍛えた体!全てのポジションOK 〕。呉海軍工廠はバレーボール日本最初の実業団チーム・呉工廠排球チームを所有し、日本バレー黎明期の強豪として知られたが〔実業団バレーボールの夜明け - 呉バレーボール協会HP 、バレーボール発祥記念碑 - 呉バレーボール協会HP 、第78号 Vリーグ・メールマガジン | バレーボール Vリーグ 、(26)「スポーツの歴史7月編」 - 京都新聞 〕〔戦時下の日本陸海軍とスポーツ 61―62頁 〕工員のスポーツ奨励に力を注ぎ、野球、卓球、庭球等も盛んで呉市民は海軍を通してそれらを知った〔〔「清酒『千福』とセーラー万年筆と海軍ー海軍が地方都市に与えた文化的影響」(『東郷』273号ー235号、1990年8月ー10月) 、軍都横須賀ー光と影 〕。そうした影響で浜崎も野球を始めた。小学校卒業後、高等科2年を経て旧制広島商業に入学。当時のエースは石本秀一で、広商の予科2年時の1917年、外野手の補欠として第3回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会(鳴尾球場))に出場した。翌1918年は米騒動で全国大会は中止。浜崎の実家も米屋で被害を受けた。 同年夏、友達が学校をさぼって海水浴に行き無期停学となり、これに巻き込まれ自身も広商の本科1年で退学。この後呉海軍工廠に半年間就職して野球を続け、前述の友達に誘われ1919年、神戸商業に入学した〔中村哲也『学生野球憲章とはなにか』青弓社、2010年、P7-25〕。「神戸商の浜崎」として「松山商の藤本定義」と共に全国屈指の投手に数えられ〔竹中半平『背番号への愛着』あすなろ社、1978年、P31〕、1922年第8回全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に出場。サウスポーの快速球エース兼3番として勝ち進むが、決勝で当時最強を誇った和歌山中学に終盤8・9回、味方のエラー連発で8点取られ大逆転負け、準優勝。7回まで4点のリードに、地元夕刊紙は「神戸商業優勝」を伝える新聞を配ってしまい、翌朝の朝刊を見るまで多くの人は大逆転されたと知らなかったという。結局、浜崎はまったく異なる学校で、2度全国大会に出場したことになった〔二宮清純「プロ野球の時間」(第1、3火曜更新) : 第399回 工藤公康、最年長勝利投手への道 〕。こうしたケースはもう一人、伊沢修(西村修)がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浜崎真二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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